尾州成海(びしゅうなるみ)
笠寺観音之本地
天満八太夫
武蔵権太夫・太夫元重太夫
直伝
元禄四年未の五月吉祥日
伊東板

 

初段

 

さても、その後
そもそも、上(かみ)一人(いちにん)より
下万民(しもばんみん)に至まで
男は外を勤め、女は内を守る事
これ皆、和国の風俗
政(まつりごと)の随一なり
又、夫妻、堅固になるときは
家、穏やかにして
子孫繁栄す
女(おうな)心、ひがめる(僻める)時は
必ず、国を乱し、人を失うによって
慎むべきは、へんじゃく(偏・着)の二つなり

ここに、仁王六十三代、冷泉院の御宇にあたって
そつ(帥)の中将有すえ(不明)とて
公卿一人おわします
去るほどに、有すえ殿
家、富み栄え目出度うして
公達数多(あまた)持ち給う
第一の姫君をば
菖蒲(あやめ)の前と申して
御年十四歳
容顔、殊に穏やかにて
美人の聞こえ世に高し
この姫君の御母は、
村上天皇第二の姫宮にてましませしが
(※理子内親王:天徳4年4月25日死去。13歳)
有為転変の習いにて
姫君二歳の御時に
儚く成らせ給いけり
中将殿の御嘆き
申すもなかなか愚かにて
憂き年月を送らるる
さればにや、このことを、
御門も不憫に思し召し
御いとまを遣わされ
江州(ごうしゅう)滋賀の里にて
知行を給わり
かくて、ここに住み給う
さるによって、今は早や、滋賀殿とぞ申しける。

ここに、今の北の方は
美濃の国、花山左京太夫友行のご息女にておわします
この御腹にも
御子、二人おわします
姉をば、まこも(真菰)の前とて
今、御年は九歳にならせ給いけり
又、おと(弟)は、菊若とて
当年六つになり給う
年より×××(げにも)大人しく
上がな下に至るまで
いにょうかつごう(囲繞渇仰)なかなかに
菖蒲、真菰はとこなつ(常夏)の
なに、菊若の才知の程
げに、滋賀殿の御果報やと
羨まざらぬはなかりけり

さて又、家の大人には
早川左藤左衛門景次(かげつぐ)
これは、当御台に
本国より付き奉る
その身の武勇
人に優れ給う故
執権職を給わり
政(まつりごと)、正しければ
志賀の浦、浪穏やかに
道の道たる早川の
流れを汲むこそ、目出度けれ

ある時、景次、
中将殿の御前に畏まり
「内々、申し上げ候通り
それがしが兄
早川文太重次(しげつぐ)と申す者
関白太政大臣、頼定(よりさだ)卿の御子息
右大臣よりただ(頼忠)卿に
召し使われ、罷り有り候につき
ご息女、菖蒲の前の御事
内々、頼忠卿へ
ご縁辺(えんぺん)の結び仕る由、願い候
それに付き、姫君の御系図、并(ならびに)御装い
書き付け上し(のぼし)申す様にと
度々(たびたび)私方まで人を以て申し候
哀れ、御書さつ(冊)遊ばされ下されなば
有り難く候」と
恐れ入ってぞ申しける
中将、聞こし召され
「いかにも、汝が申す通り
かねがね、その結び有り
誠に、我、武将の身たりと言えども
関白のご子息
右大臣殿を婿に取らんこと
唐土(もろこし)までの面目なり
去りながら、汝も知る通り
姫が母は、先帝、第二の姫宮なれば
さのみは憚る(はばかる)所も無し
さあらば、由緒書き、認め(したため)て送らん」と
細々(こまごま)と遊ばされ
景次に給わり
禁中に入らせ給えば
左藤左衛門承り
「いかに、御家中の面々
ご息女、菖蒲の前の御事
都、関白殿へ
近日、御縁辺の御寿(おんことぶき)有り
皆々、悦び給え」とあれば
上下、さざめき、悦びの万歳楽(ばんぜいらく)
と奏でつつ
御営み、目出度かりける次第なり

これは、さておき
関白頼定卿のご長男
右大臣頼忠卿と申せしは
御年二八(※16歳)の花盛り
色も匂いも並(な)べてならず
例えを取るに
唐土(もろこし)のりくろう(陸老)
我が朝の聖徳太子の古(いにしえ)か
是高(?惟喬)、是人(?惟仁)、桓武帝
昔も今に在原の行平、業平と申せども
この若君には、よも勝じ(まさじ)
八雲の道(※和歌道)は浅からず
本朝、ぶそう(無双)のびどう(美童)なり
これは、文月(陰暦7月)七日の夜
七夕祭りのそのために
手ずから花を差し給い

※脱落あり:右大臣頼忠の話
※続いて:菖蒲の前の由緒書きを景次が、兄重次に渡した場面

案内、乞うて
舎兄重次に対面し
巻物を相(あい)渡し、
暇を乞うてぞ帰りける

重次、是を受取て
君の御前に罷り出で
「内々、申し上げ候通り
滋賀殿の御方より
姫の御由緒
書き付けを以て越され相当
御披見遊ばされしかるびょう(然るへう)候」と
謹んで申しあげる
右大臣、取る手遅しと
押し開き、見給うに
「さて、『江州滋賀の西の対
菖蒲の前が伝を詳しく尋ぬるに
父は、敏達天皇の後胤として
王子を出でて、遠からず
帥の内大臣、高家の嫡男
帥の中将有すえ
北の方は、又忝なくも、村上天皇第二の姫宮
深き恵の道過ぐなり
たけのそのう(竹の園)の御末ば
十八相のその装い
桂の黛(まゆずみ)、青うして
雲の角髪(びんずら)、花の顔(かおばせ)
寂寞たる(せきばく)二重の眦(まなじり)
未央の柳 (びょうのやなぎ)の翠の簪(かんざし)たおやかに
母宮に等しく敷島の道も暗からず
おこがましく候えども
御望みなれば
あらあら、かくの如くに候
早川文太殿へ
同名左藤左衛門の尉
景次判』」と読み納め給い
「如何に重次
残る所も無き姫の由緒書
一重に満足せり
去りながら、汝も知る如く
我が父、頼定卿は関白職を蒙り給えば
今、日の本の一の人
しかるに、疎か(おろそか)にては
我が妻とは言われまじ
心の丈を如何に」とあれば
重次承り
「参候(ざんそうろう)、世の取りざたを承り候に
情の道は、姿にも猶、勝る由
かねがね承り申して候」
「いやいや、重次、さにては無し
情けと言うにも品、多し
貞女の道を違えずして
誠の志(こころざし)深きこそ
情けとは言うべきなり
誘う水あらばの志は
情けにては無く
心多き女とや言わん
かく言えば、それがし
色好きに似たれども
まったく、さにてはあらず
 且つうは、親孝行のためにてあり
所詮、我、志賀の里に立ち越え
余所ながらも姫の心を窺うべし
この義、如何に。」とのたまえば

重次、承り
「さて、さて、切なるお志
感ずるに所なし
お供の用意申し付けん。」
と、立たんとすれば
大臣、しばらく、しばらくと押しとどめ
「このこと、人に知らせては
その甲斐なし
それがし、一人、賎しき者に様を変え
忍びて、姫の心を試してみん
必ず、隠密、仕れ」と
一夜も結ばぬ若草の
何れ、菖蒲(あやめ)と知らねども
思い掛けたるその人の
心のしつ(実)を尋ねんと
密かに用意ましまして
江州指してぞ急がるる

げに世の中の
女心の儚きは
高き低き限らずし
継子継母の御仲ほど
世に転(うたて)しきものは無し

去れば、志賀の館には
当、政所
明け暮れと、菖蒲の前を
疎ませ(うとませ)給い
ある時、左藤左衛門を密かに召され
「さてさて、汝は、頼み甲斐無き者にてある
菖蒲の前と自らが
隔つる仲を知りながら
妹が事は差し置き
明け暮れ、憎しと思う菖蒲の前を
汝が計らいにて
関白殿へ、縁の結びを申せしはいかに
いとどさえ、中納言殿
自らが子供をば
子を持ったると思し召さず
ただ、明け暮れ、
菖蒲がことばかり寵愛し給う
西の対に住みけるさえ
世に妬ましく覚ゆるに
まして、菖蒲の前
政所と傅かれば(かしずかれば)
そもやそも、自らが
おめおめと、生きていられんものか
汝、誠の心あらば
おことが、計らいにて
この縁組みを変改(へんがい)し
しんい(瞋恚)を晴らし得させよ」と
面色(めんしょく)変わって、御声震い(ふるい)
思い恋う(おもいこうて)てぞのたまいける

景次、承り
涙をはらはらと流し
「さても、さても、今までは
よも、左様の御所存とは存ぜず候所に
さりとては、ええ、浅ましき御心底
てんまはじゅん(天魔波旬)が入り、変わりしか
思し召してもご覧ぜよ
女儀とは申しながら
美濃の国、花山左京殿のご息女ともあらんずる御身にて
かかる御一言
一重に、下郎どもの成す業
有るべきこととも思われず
それがしは、苦しゅう候わず
必ず、必ず、人に語らせ給うな」と
恐れ入りてぞ諫言す
継母、弥(いよ)、立腹あり
「やれ、それ程の事を
汝に教えられんや
いやいや、兎角、論は無役(むやく)
ただ、この縁を切ってくれよ
一重におことを頼むぞ」とよ
景次、承り
「いやいや、なんと仰せ候えども
このこととては、ふっつと叶う候まじ」
御台、聞こし召し
「さては、しかと、叶うまじきか」
「なかなか、思いも寄らず」と申しける
北の方、聞こし召し
「さても、是非無き、ことどもかな
これにつけても女ほど
世に浅ましきものはなし
わらは、女の身ならずば
憎しと思う、菖蒲の前が
のど笛に食いつき
今の思いを、晴らさんものを
あら、腹立ちや
是まで」と
守り刀に手を掛け給うを
駆け付く、飛びかかり、押しとどめ
まず、暫く、暫くとぞ、悶えける

しかる所に、
舎兄、文太より参り候と
書状一通、差し上ぐる
はっと、驚き、景次も御継母も
互いに、目と目を見合わせて
手持ち無沙汰に見え給う
やや、有りて、景次
押し開きてこれを読む

その文(ぶん)に
『膝附(ひざつけ)居立つせしむる
 従って、主君、内大臣殿
菖蒲の前の御心を引き見んため
姿をやつし、この地を立ち越え給う
必ず、必ず、姫君に
粗忽(そこつ)無きように
御約束尤も(もっとも)に存じ候
もし、不覚なること、これ有るにおいては
その方、拙者共に、
侍の道、立たず
錬士の事にて候えば
密々の状、差し遣わすものなり』
と、読み終わらず、北の方
かの状を奪い取り
「これ、屈強の事にてあり
この度、縁切らすべき手立て
天よりも、与え給う
何事も、自らに任すべし」と
喜色、ほうて(※ばんで)のたまえば
景次、承り
「お情け無き、御諚かな
とても、縁を切ることは
なかなか、叶え候まじ
是非に、思し召し、御止まりましまさずば
大殿へ申し上げん」
と、立たんとすれば引き止め
「やれ、景次
汝は、××××(4字欠:例(侍のみち))を知らぬ者かな
申しても、おことは
自らが、国元より、付き来たる者ではなきか」
「参候、仰せの如く、御父上より、預かり奉れば、
一命にても、差し上ぐるべきが
侍の道は、背かれず候」
御台、思うて、
「尤も(もっとも)、さもあらん、さりながら
菖蒲の前は当分の主(あるじ)
自らは、譜代相伝の主ならずや
縦(よし)は、わらわがためには
命の義は、申すに及ばず
侍の道を、失ないてなるとも
わらわが、思いを、晴らさんこそ
道、ならんに
自らは、死してなるとも
おことは、(いちぶん)一分立てんとや
この上は、ともかくも
心の儘に、お侍の道を立てられよ
来世で思い知らせん」と
駆け付くが、太刀に手をかけて、狂わるれば
駆け付くも、さしあたりたる道理に詰められ
「この上は是非もなし
ともかくも、御心に任させ給え
左様に思し召す上は
それがしが思案こそ候え」と
差し俯きてぞいたりける
継母の面(おもて)の色を直し
「その義ならば、自らが、計らう子細のある間
必ず、必ず、頼むによ
他所へ漏らし給うな」と
悦び、勇みて、入り給う
景次、御後ろ姿をつくづくと見送り
「さても、さても、怖ろしや
品、形こそ、良くは生まれつきたらめ
心はなどか、賢きより賢きにうつさば、
などか、うつさざらん
ああ、為成(しな)したる世の中」と
独り言してそれよりも
宿所を指して帰りける
かの、かの景次が有様
げにもっとも、理(ことわり)と
貴賤、上下、おしなべて
皆、感ぜぬ者こそなかりけり


二段目

 

去るほどに、若君は
賎しき、賎(しず)が身を学び
糸の草鞋(わらんず)竹の杖
菅(すげ)の小笠(おがさ)で顔隠し
恋路の闇に迷い出で
頼(らい?)(願カ)を掛けて、常陸帯
結ぶ、契りはいつの世に
かないさと(金井里(※叶う))とはこれとかや
いくちよ(幾千代)掛けし かめ(亀)が橋
渡りかねたる竹嶋や
(※多景島(たけしま・たけいしま)は、琵琶湖の島)
沖にカモメが、三つ、連れて
比翼(ひよく)の語らい優しさよ
我は、君ゆえ、恋の松(※唐崎の松カ)
よしの高嶺(※比良カ)は見えねども
思いは空に焦がれ来て
露の情(なさけ)は朝顔の
夕方近き、
時雨山(しぐれ山)の暮れ行く程に
未だ、秋には見えねども
滋賀の里にぞ付き給う

去るほどに、姫君は
上﨟達を引きぐして
紅葉(もみじ)の殿に出で給い
あら面白の初(はつ)秋や
ススキに向かう白玉の
荻(おぎ)、萩(はぎ)桔梗(ききょう)、おみなめし(女郎花:おみなえし))
蘭の香りも、忍ばしく
蜻蛉(かげろう)のちらちらと飛び交うも
心細さは、限りなし

姫君、仰せける様は
「のう、如何に、女房達
先ほどの物語の遊び者は如何に」
と、あれば、女房たちは承り
「さんぞうろう、お次まで参り候由承る」
「それそれ」とありければ
「畏まって候」と
衣紋繕い(つくろい)若君は、
手飼いの猿の綱を引き
さても、やつせし、我が姿
昔、用明天皇の玉よ姫を恋わびて
いつしか、帝位を振り捨てて
心づくしに身をやつし
山路(さんろ:用明天皇の仮の名)が、草刈り笛とて
世の業になり給うも
恋故にては、あらざるや
我も心は同じ事
ああ、正体なの我が身やと
顔、打ち赤めて出でらるる

御前になりしかば
女達、立って、御簾の内より差し覗き
かかる卑しき者にさえ
一き(義)は優れし、その姿
有るべきこととも、思われずと
守り勤めてぞ居たりける
やや、ありて、奥よりも
「何にても、面白きを一曲奏で(かなで)見せられよ
かく、美しき装いにて
卑しき猿をば引き給うぞ」
若君は聞こし召し
「さん候、いわゆる、
なんくわらうえいは(?不明)
てうさんほうし(朝三暮四)の
とち(栃)さる(猿)を愛し給いて
一生の楽しみに、暮らさるる
布袋禅師は、幼き子を寵愛せしも
これ、なんめり(※なめり)
我も又、其(そ)の如く
物言わず、笑わねば
人の心を、汲みて知る
猿に勝れる、重宝や有るらん
縊れ(くびれ)し手綱を
我、引き顔には、見ゆれども
賎が思いも同じ事
君が、綱手に引かされて
迷い来ぬる、恥ずかしや

汝が思いに比ぶれば
我が思いは
勝る目出度き
ましまし、目出度き
踊るが手元お(緒)
猿や、召さるか
小猿に教えて
あらき(安楽)事をば
見ざると申せば
人事言わざる
悪事を聞かざる
木の葉猿めが
見ざる、目元で
ころりと、こけざる
そこらで、締めろ
踊りは山猿
恋の心か、申酉戌亥(さるとりいぬい)
憂きに浮き世の
猿、豆蔵(さるまめぞう)に
猿が狂わば、我が身も共に
浮き世狂いは、面白や
駒引き出すには、猿の
白い水干、立て烏帽子
折り烏帽子を、しゃんと、着ないて
御馬(おんま)の手綱を搔(か)い繰って(くって)
立見馬や春の駒
土佐に雲雀毛(ひばりげ)、糟毛(かすげ)、柑子栗毛(こうじくりげ)
額(ひたい)白、牧の駒に、信濃に白駒
何何、乗りたい、心ぞ面白や
いかに、ましよ
さて、奥よりの、御望みなれば
これなる綱手を渡りて
お目に掛け申せ
早疾く、疾く」と
縄手を切って放せば
天にも昇る心地して
大庭に踊り出で
駆けつ、返しつつ、跳び上がり
手繰りに繰りし、綱渡り
げに、誠に、ささがに(笹蟹)の
糸、繰り返す有様も
かくやとばかりぞ、知られける

かかる所に、御継母
西の対へ入らせ給い
「さて、さて、賑(にぎ)、賑しや何事ぞ」と
問わせ給えば
姫君、聞こし召され
「さん候、あれに立ったる少人(しょうじん)の
様々、秘曲を尽くし申し候
御慰めに、ご覧あれ、それそれ」と
「外に珍しき事は、無きか
母様のお目に掛けよ。」
女方(にょうぼう)達、承り
「如何に、それなる、稚児
何にても、今少し
一曲、所望」とのたまえば
畏まって、それよりも、思うて支度をなされける

元より若君
禁中一つの鞨鼓(かっこ)の名人
其れ、これ、都に流行りたる
紅葉流しと言う曲を
拍子にのって、舞い給う

「あら面白の御代のためしや
春は先、咲く梅(むめ)野かや
初音、定かに、鳴く鶯は
君に心を紅(くれない)の
千鳥掛けたる、鞨鼓の調べ
打つや太鼓の音も春過ぎて
夏は涼しき、浪の鼓は
したん(紫檀)たんほほ(タンポポ)
秋の鹿が妻恋う声は
笛に近寄り、紅葉の色か
元より、鼓は浪の音
現(うつつ)に打つやこの鼓
打つや鼓の河柳
さらさらさらと
水に揉まれて、ね(音)も出ずる

野辺の錦の花の色
てんでに折って持つツツジ
たんたんたんと
鼓の調べを
締めつ、ゆるめつ
真紅の糸は
縒れて(よれて)絡まる
結び契りの末長く
代々(よよ)を重ねて
二つの竹を打ち納めたる
御代(みよ)ぞ  久しき、さざ波や
滋賀の唐崎の、松の葉風に
さらさらさらと
拍子に合わせて
と(戸)を、とろとろと
鳴神(なるかみ)鼓も、思う仲をば、裂けぬもの」
と、舞いけるは、
心詞(こころことば)も及ばれず

かねて、若君
姫君の心を、少し、引き見んと
恋の猿楽
かざし(翳し)の袖のひまよりも
一首の歌を、短冊に遊ばして
御簾近く、落とし給いて舞い納め
その身は、木陰に入り給う

去るほどに、女房達
この短冊を拾い取り
つくづくと見給うに
姫君の御身の上、恋しのぶ
歌の心と見るからに
さても、不敵のあの稚児や
かかる、卑しき身をもって
姫君を恋奉るおかしさよ
姿に似せぬ心やと
一度に、どっとぞ笑いける

しかる所に、北の方
この短冊をご覧じて
「さて、方々は、情けも知らぬ者どもかな
恋路の道には、
高き、卑しきに隔てなし
殊に、かようの下々は
必ず、心、性無くて
返って、浮き名を立つるぞかし
何とかなせん
おお、自らが、よき手立てを
思い出してありけるぞ
のう、菖蒲の前
この返事を書き給え
自らが、よき様に計らいて参らせん」と
睦ましげにのたまえば
何心なく、姫君は
母の仰せを背かじと思し召し
「ともかくも」と、のたまえば

その時に、北の方、硯、引き寄せ
一首の歌を書き給い
この如くと好(こう)給えば
姫君、何の弁え(わきまえ)もましまさず
書きしたためて
母上様へ渡しつつ
簾中指して、入り給う
母君、下女、一人近づけ
「汝は、この色紙を
あの稚児に渡し
夜に入り、これへ忍ばせよ
早、疾く、疾く」とのたまえば
下女、承り
やがて、表に走り出で
若君に、
「夕さり、忍ばせ給え」とあれば
若君、はっと思いながら
心で心を引き静め
しからば、御身を頼り申すと
その夜の更くる(ふくる)を待ち給う

既に、その夜も、丑三つの頃になりぬれば
若君を伴いて
姫君の御寝間を指してぞ行きにける
それにて、しっぽと語り給えと
我が身は、奥にぞ入りにける
若君、かちょう(蚊帳)の内を差し覗き見給えば
姫君は、さも恥ずかしげに
衣(きぬ)引き担ぎ、伏し給う御装い
例えを取るに言葉なし
蘭奢の匂い、四方(よも)に薫じ(くんじ)
思い恋うたる装いより
心も惑う(まどう)ばかりなり

やや有りて、心を取り直し
ああ、愚かなる我が心
この姫君、誠ならば、
これまでの契りなるものをと
蚊帳(かちょう)の内へ、つつっと入り
「如何に、姫君
我はさて、君故に
これまで、憧れ参りたり
起きさせ給え」と、のたまえば
更に、いなせ(否諾)も、し給わねば
頼忠、絶えかね、衣、引き退け見給えば
聞きしに違う(たごう)おと御前(おとごぜん)
二目と見られぬその姿
こは、怖ろしやと、逃げ出でれば
続いて、追っかけ、い抱き留め
「心ぞつれなや、若君様
わらわは、都、関白殿へ
縁の結びし者なれども
御志(こころざし)の切(せつ)なる故
貞女の道を破りつつ
かくは、うち解け参らする
こなたへ、入らせ給え」と、言う
若君、聞こし召し
何とぞ、ここを、偽りて
帰らばやと思し召し
「いかに、菖蒲の前、
しからば、今宵は
留まりて、帰るべし
ここぞと、放せ給うべし」
しちく(糸竹)承り
女心の儚さは
これを、誠に思いつつ
「かまいて、かまいて、若君様
今宵は、余と共に
しっぽと語り申さん」と
手を引き、入らんとせし所を
振り切って、駆け出し
館を指してぞ帰らるる

糸竹は、力、及ばずして
呆然と立ちけるが
「ええ、口惜しや
手に入れたる、おてき(お敵)をば
無手(むで)に返す無念さよ
最前、放さずそのままに
蚊帳(かちょう)の内へ連れ入れて
しっぽと語り、返しなば
今の思いは、よもあらじ」と
一人、悶えて立ったるは
さても、うるさき、糸竹が濡れ
残り多しとも、なかなか、申すばかりはなかりけり


三段目
 
去るほどに
右大臣頼忠卿
ほうほう、都に帰らせ給い
早川文太を召されつつ
「さて、さて、汝は
そこつの者かな
この度、大政大臣の家を汚さんとする
これ、末代までの瑕瑾(かきん)なれ
故を如何にと言うに
我、過ぎし夜
滋賀へ立ち越え
卑しき様に身をやつし
姫の心、窺いしに
心様といい、姿形(すがたかたち)
雲泥万里の相違なり
十八相の装いとは、
何をかは、書きぬるぞ
但し、姫の姿、生まれ(むまれ)の
存ぜしを書きつるか
たかやす(?高安:大阪府八尾市)里の下へ(下部)にも
かく、見苦しき女は
見も聞かず

その上(かみ)
美濃の国、西郡(ごおり)長者が
乙(おと)の姫に
かく、浅ましく、生まれ付いたる者ありて
そくこん(?俗言)に言い伝えて
ふつつかなる女を
乙御前と言い嘲る(あざける)
その乙御前といえども
かほどには、有るまじ
不敵千万
急ぎ、へんがい(変改)仕れ  」
御気色替えて、仰せらるれば
重次、言葉無く
しばし、呆れていたりしが
「さてさて、驚き入りたる御事
去りながら、その段は
これ、もって、心得難し
但し、思し召し当たりたる
証拠ばし候か」
大臣殿、聞こし召し
「愚かなり、重次
偽りて、我、艶書を送りしに
さっそくの返事
是、見よ」と、差し出だし給えば
文太、取り上げ、つくづく見て
「言語道断
御立腹、ごもっとも
拙者が一生の誤り
とかく、それがし、あの方へ立ち越え
是非、変改仕るべし」と言い捨てて
取る物も取りあえず
滋賀の里へ急ぎける

館になれば、中将殿に対面し
「さて、この度
御息女、菖蒲の前、御事
不義、これ有る間
この方より、変改仕る
如何なる方へも御送りなされ候
故を、如何(いかん)と言うに
数多の夫(つま)を重ね
心、多き御息女を
関白の嫁に取りても
苦しからず候やと
思い恋うて詰めかけしは
のう、苦々しゅうこそ見えにけれ」

中将、思案に落ちず
眉を顰めて(ひそめて)おわせしが
やや、ありて、
「いかに、重次
尤も、変改とある事
これとても、世の習い
しかしながら
菖蒲の前が、不義とは、
一円、心得ず
何と、証拠ばし候か」
重次、聞きもあえず
「愚かの仰せ
これ、これ、ご覧候え」と
件(くだん)の色紙を取り出だせば
中将、取り上げ、見給うに
疑いも無き、菖蒲の前の御手跡(しゅせき)なり
こは、そも、如何にと
各々、目と目を見合わせ
呆れ果てたるばかりなり
その時、文太は、弟、景次に向かい

「おのれ、侍畜生なり
何とて、故も無き事を書き上げしぞ
とかく、汝を生きおいては
我、主君への一分が立たず
打って捨てん」
と、太刀の柄に手を掛くれば
左藤左衛門、とこうに及ばず
「仰せの如く、
何事も皆、それがしが誤りなり
お手討ちに遊ばれよ」と
首、差し伸べて、居たりける
重次、飛びかかって討たんとするを
中将、慌てて、押しとどめ
「尤もなり、去りながら
この度の子細、
景次が業ならず
詮する所、菖蒲の前が不義故なる
この上は、姫が首を討って
頼忠殿の御憤り(いきどおり)を安むべし
さある時は、御辺が一分も立つべきなり
平更(ひらさら)、この度は
我に面じて、許してたべ」と
理非(りひ)を分けてのたまえば
重次、涙を、はらはら流し
「御もったいなき、御意の程
感ずるに言葉なし
この上は、ひとまず、都に帰り
主君、頼忠公へ
何卒、申し訳致すべし
最前のお言葉に
姫君を失い
我が主君の憤りを
安めんとの御事
必ず、必ず、思い止まらせ給うべし
まずまず、お暇(いとま)給わらん」と
都を指してぞ、帰りける

さて、その後に
中将殿、景次を召され
「つくづく、物を案ずるに
菖蒲の前を生き置いては
末代までも
世の人口(じんこう)に懸からんこと
返す返すも、口惜しや
所詮、今宵、夜に紛れて
汝、密かに、姫を引き具し
前なる海へ、沈めに掛けよ
ああ、さて、浅ましや
人の親の、持つまじき物は、女子(にょうご)なり
彼が乳房の母、最期の時
姫が事、様々、嘆き、空しくなり
世に愛おしく思う故
一つは、母が形見と思い
世に無き子を、我ばかり持つ心地にて
寵愛、疎かもなかりしに
今は、なかなか、
思いの種となりたるか
さて、浅ましの浮き世や」と
袂を顔に押し当てて
さめざめ泣いておわします

景次も悲嘆の涙
堰あえず
「ああさて、浅ましきは、宮仕え
あから様に申せば
相伝の主君の命(※継母の命令)を、取り申さねば
又、敢然に、姫君の命を取る」
とやせん、かくやと、案じ患い
進退、ここに極まって
是非も分かず、泣きいたり
時に、中将殿
「時刻、移るに、早、疾く疾く」と、のたまえば、
景次、とこう及ばずし
姫君を伴いて、磯辺(いそべ)を、指してぞ
急ぎける

浜地になれば、
小船をしつらいて、
姫君を、乗せ参らせ
滋賀の都の古里、拝み
隔つる雲や、遙々と
海上、遙かに漕ぎ出だす。

いたわしや、姫君は
何の心もましまさず
「如何に、景次
父上の御諚には
宿願の事あれば、唐崎へ参詣せよと(※唐崎神社)
仰せられしが、
何とて、女房達は参らぬぞ、心得難し」
とのたまえば、
左藤左衛門、承り
「御科(とが)は存ぜねども
如何なる故にや、この海へ、沈め申せとの御諚にて
これまで、お供、仕る
お念仏、然(しか)るびょう候わん」と
差し俯いてぞ、泣き至る
姫君、夢とも、弁えず(わきまえず)
「こは、そも如何に、自らは
何の覚えも無きものを
誰や(たれや)の人が、父上に
あらぬことを申し上げ
かく怖ろしき大海の
底の水屑(みくず)とならん事
返す返すも悲しや」と
流涕焦がれ、泣き給う
ややありて、涙を抑え
「我こそ、覚え無きとても
血を分け給いし父上の
憎しと思し召されなば
嘆くまいぞや我が心
さは、去りながら、うらめしや
夢ばかりなりとも、知らさせ給わば
真菰の前や、菊若や、母上様にも
お暇、申さんものを
かく成ることは、知ろし召さず
さぞや、嘆かせ給うらん
妹や弟が、今宵離れて、明日よりは
誰を頼りにし給うべき
思いやられて、愛おしや(いとおしや)
詮方もなの我が身や」と
悶え、焦がれて、泣き給う

涙と共に、袂より
御経を取り出だし
高々と三巻、読み上げさせ給い
「只今、読み奉る御経は
先立ち給う、乳房の母、
往生、極楽の御為
さて、一巻は、後にまします
父上や、母上様や、兄弟の
現世、安穏、後生養生のその為
又、一巻は、自らを
乳房の母と諸共に
一つ蓮(はちす)に救わせ給え
南無阿弥陀仏」と読み給い
船底に倒れ伏し
泣くより外の事はなし
ようよう、心を取り直し
船梁(ふなばり)に立ち上がり
袴(はかま)のそわ(※そば)を高く取り
なをし(直衣)の衣(きぬ)の袖と袖
引き結びて、肩に掛け
甲斐甲斐しき風情にて
「さあ、景次、如何に、沈めよ」と
のたまいたる、御顔(かおばせ)の美しさ
終夜(よもすがら)、泣き明かせ給いたる
鬢(びん)の髪の御面差しに
乱れ懸かりし御装い
よくよく見れば
目眩 (めくれ)心も消え消えと
泣くより外の事はなし

やや、ありて、思う様
『かくやんごとなき姫君を
故も無き事に失わんは
これ、皆、継母の邪険の心より起これり
我、まさに、知りながら
今又、姫君を、我が手に掛けて、害せんこと
これ、人界の本意ならず 』

「如何に、姫君様
今は、何をか、包むべき
是、皆、継母の悪心より、事起これり
しかれども、ご存じの如く
それがしが為には
譜代相伝の主君なれば
何とすべき様もなく
是まで、お供、申し候えども
御装いを見、奉りては
なかなか、害し奉らんとも思われず
この、竹の嶋に上がらせ給え」と
(※竹生嶋)
い抱き上げ奉り
「御命、恙なく(つつがなく)
母君の御菩提をも
懇ろ(ねんごろ)に問わせ給え
それがしも、これより発心仕り
浮き世の絆を免れ申さん
これまでなり」と
腰の刀をするりと抜き
髻(もとどり)切って
太刀、諸共に海中へ投げ捨て
涙ながらに漕ぎ出だす

姫は、余りの悲しさに
「やれ、景次よ
かく怖ろしき所に
わらわ一人捨て置くは
失われしよりなお思いあり
連れて行けよ
さもなくば、汝が手に掛け
概して得させよ
早川」と
流涕焦がれ、泣き給う
げにや誠にその昔
早利即利(そうりそくり)が海岸山(かいがんせん)に流されしも
かくやとばかり、思われて、いとど哀れぞまさりける

かかるところに
漁船(りょうせん)とうち見えて
夫(おっと)は網打ち、女(め)は、棹差し
嶋の当たりを
何心無く打って通る
姫君、嬉しく、思し召し
「のう、その舟に、便せん申さん
わらわは、都方の者なるが
父もなく、母もなく
兄弟とても、候わず
寄る辺定めぬ、泡沫の(うたかたの)
哀れみ給え」とのたまえば
夫婦の者、呆れ果て
「これ、只人にて、よもあらじ
げに誠、これこそは
名に聞き及びし
内裏上﨟とは、これならん
如何なる故にか
この所に捨てられさせ給うぞや
かかる、優しき上﨟を
我々が、身に替えても
助け参らせん」と
やがて、舟にい抱き乗せ
甲斐甲斐し気に夫婦の者
櫓櫂(ろかい)を揃え
勇みに勇みて、
海津の浦へぞ、帰りける
(※琵琶湖北岸)

これは、さておき
滋賀殿の北の方
女房達を召し連れ
「今は、早、
菖蒲の前を、思いのままに失いて
心に懸かる事も無し
去りながら、
一つ、心に懸かりしは
下の水仕、しちく(糸竹)なり
彼を、そのまま置くならば
遂には、人に語るべし
とてものことに、
彼めも失わん」と思し召し
糸竹を召され
「さて、汝は、この度
大事を頼みしに
下郎とは言いながら
よくもはからい得させたり
この度の褒美には
それよ、着たりし衣装をば
残らず、汝に得さするなり
聞けば、汝は
かのお稚児を恋焦がるる由、聞いてあり
この文を持って
都の方へ尋ね行けば
必ず巡り逢うべきなり
早、疾く疾く」と
誠しやかにのたまえば
糸竹、涙をうかめ
「こは、有り難き次第かな
かく美しき御小袖
下さるるのみならず
恋故死する我が命まで
救わせ給う、有り難や」と
一人悦び、お暇(おいとま)申し
一間所に立ち入りて
思いのままに装束し
都を指してぞ上がりける

しかる所へ、男二人
息切って追っかけ来たり
「やあ、おのれは、誰(たれ)に断り
番所をば、出でけるぞ
法を背く科人
それ討て、殺せ」と、犇めきける(ひしめきける)
糸竹、これを聞くよりも
「いやさ、わらわは
御台様の仰せによりて参りたり
聊爾に誤り、自らを恨み給うな、方々」
と、空目、使う(つこう)ていたりける
下郎共、是を聞き
「愚かや、糸竹
我々は、御台様の仰せにて、
是まで追っかけ来たり
かくごう(覚悟)せよ」と、
ちょうど切り
切られて、糸竹は声を上げ
「さては、謀り(たばかり)追い出し
失わせ給うかや
あら、腹立たしや、口惜しや
やがて、思い知らせん」と
言う声をも聞き入れず
散々に切る程に
糸竹は、空しくなりにける
下郎共は、これを見て
し済ましたりとは、思えども
今の言葉の怖ろしやと
逃げて、館に帰りける

さてその後に
滋賀の中将有末は、
兄弟の若達、
北の方、諸共に
ご一門の集まり
四方山々の
御物語あり
中にも、いたわしや中将殿
菖蒲の前の御事を
今、一入(ひとしお)、思し召し出だされ
無常を感じておわします
しかるところに
築山の陰より
怪しき者こそ、出でにけれ
人々、これはと、不思議なし
目を留めて見る所に
色青ざめたる、女の生首
苦しげに、付く息は、
炎となりて、光を出す
髪、長々と梢(こずえ)を惑い(まどい)
凄まじき事、言うばかり無し
その時、有末、えんはな(縁鼻)に立ち出でて
太刀の柄に手を掛け
「おのれ、何者なれば
我が前には、来るぞ
推量するに、菖蒲の前が亡魂ならん
おのれが、不義故
殺されしことなれば
誰に、恨みありて
これまで、来たるぞや
かく言う、父にばし、恨み有るか
さて、浅ましき心底かな
さは去りながら
よもや、菖蒲が
執心にてはあらじ
虎狼野干か
生け(?障礙:生化)をなすと覚えたり
本性を現せ」と
大音声に仰せける

時に、かの首
打ち萎れ(しおれ)
「こは、もったなき仰せかな
何しに、菖蒲様にて候べき
恥ずかしながら、自らは
下にて召し使われし
糸竹が、亡魂にて候なり
いかに、それなる、御台様
去るとては、恨めしき御心底
とやかくと、頼ませ給う故
女心に儚さは
心弱くも頼まれ参らせ
もったいなくも姫君の
御縁を切らせ申す事
是、皆、御身の頼ませ給う故ならずや
しかる上に
自らに、何の科の候いて
情けなくも、刃(やいば)に掛け
殺し給うは、何事ぞ
その上、いとも、賢きご縁をば
妨げたるその科(とが)とて
阿鼻(あび:阿鼻地獄)大焦(だいしょう:大焦熱地獄)に堕獄(だごく)して
浮かぶ事さらに無し
この情の尽きせばこそ
子子孫孫(ししそんそん)に至るまで
悉く取り殺し
今の恨みを晴らさんものを
ああ、苦しや」と
言う声ばかり、御殿に響き
わっと、叫びて失せにけり
満座、ひっそと静まって
物言う者こそなかりけれ

しばらくありて、中将殿
溜息、ほっと、付き給い
「ええ、さて、浅ましや
かかる事とは知らで
故も無き、菖蒲の前を
失いしことの念無さよ
草の陰にて、姫が、さぞや恨みん」と
涙に暮れさせ給いけり
「なにわに付けて
只、浅ましきは、火宅の住まいか
是こそ、法(のり)の門出(かどんで)と
髻(もとどり)切って投げ捨て
物をも言わず、出で給えば
兄弟の人々は
弓手や馬手に取り付いて
何処(いづく)へ行かせ給うぞと
い抱き止めんとし給えば
左右へ、かっぱと突き倒し

「さいしちんぽう(妻子珍宝)
きゅうおうい(及王位)
りんみょうしゅうじ(臨命終時)
ぶずいしゃ(無随者)
仏道の妨げなり
何残すらん
南無阿弥陀仏」

と言い捨てて、出で給うは。理(ことわり)せめて哀れなり

御所中の老若
かく怖ろしき御殿に
まして、主君もましまさず
いつまで、長居せんなしと
我先にと、逃げ出れば
さしも、栄えし
滋賀殿の御前兄弟は
ただ、一時(ひととき)に、荒れ野になる
この人々の心の内
哀れともなかなか、
申すばかりはなかりけり


四段目

 

その後、花と栄えし、滋賀の里
今日は、引き替え、ちりぢりに
荒れにし、軒の廃れ(すたれ)屋に
親子三人侘びしくも、嘆きながら、月日を送り
その年も、早、過ぎのまと(?)
秋風寒き夕暮れに
いたわしやな北の方
この頃は、風邪の心地、ましまして
深く悩ませ給う××(※ゆえカ)
兄弟の人々は、
後や枕に立ち添いて
様々、看病し給いけり
その時、屋鳴り、振動して
崩るるばかりに聞こえけり
母上も兄弟も
「のう、怖ろしや、何事ぞ」と
そのまま、そこに倒れ伏し
しばし、消え入り給いけり
時に、糸竹が亡魂
すごすごと現れて
「あら、恨めしや御台様
又こそ、参りて候うなり
いかにもして、命を取らんと思えども
御継子(ごけいし)なれども、菖蒲様
海津の浦の漁師に拾われましまして
××(※父母)兄弟の御ために
法華経読誦し給う故
諸神諸仏に隔てられ
思うに、甲斐無く過ぎけれども
限りこそ、あれ
姫君の御願(おんがん)も
はや、今日、満てり
その、暇を見て
又、こそ参り候」と
言うやいなや
首、抜け出で
御台の枕に寄ると思えば
往生の息をふっと、吹きかけ
姿は消えてなかりけり

いたわしや、北の方
忽ち、五体腐乱し
「ああ、苦しや、耐え難たや」と
悶え焦がれて、泣き給う
兄弟の人々は
慌てふためき、立ち寄りて
「のう、母上様
心は、何とましますぞ」とのたまえば
ややありて、母上は、
苦し気なる息をつき
兄弟の御手を取り
「恨めしや、自らは
死霊の恨み、深ければ
最早、冥途へ赴くぞ
これについても、菖蒲の前
海津の里に、未だ長らえあると聞く
さぞ、自らを、疎み(うとみ)給わん
恥ずかしや
わらわ、空しくなるならば
嘆きを止め
おことらは、海津の里へ尋ね行き
菖蒲の前に巡り会い
この有様を懺悔して
姫が恨みを晴らしなば
自らが為には
千部、万部を読みたるより
猶も、うれしく思うべし
ああ、苦しや、耐え難や」と
是を最期の言葉にて
そのまま、空しくなり給う

兄弟の人々は、
「のう、母上様
年にも足らぬ我々を
誰に、預けて、遙々と
死出の旅路に赴き給うぞ
この世のなごりに今しばし」と
空しき死骸にい抱き付き
口説き立つぞ、泣き給う
大人しやかに、菊若は
「さのみ、嘆かせ給うなよ
とても、叶わぬ事なるに
まずまず、御死骸を
いづ方にも、納めるべし」
「おう、良く言われし、菊若丸
幼なけれども、おことは、
さて、さすが、父子の子なるよな」
しからば、死骸を納めんと
兄弟、立ち寄り、甲斐甲斐しく
母上の亡骸(なきがら)を
とある所に、納め給う、心の内こそ哀れなり

是は、さておき、中将殿
発心、堅固にましまして
則ち、「ぜんぐ坊」と法名し
此(この)の三年(とせ)が間
諸国、行脚し給う所に
早川左藤左衛門、入道し
則ち、これも、「さいかん坊」と改め
これも、修業に赴きしが
信濃の国にて、巡り会い
主従うち連れ
西国行脚し
巡り巡りてこれぞここ
仏の縁に会う身(近江)ぞと
滋賀の里にぞ入り給う

「いかに、さいかん
故郷へは、錦を着て帰るとこそは聞きいるに
我々は、引き替えて
色も、匂いも墨染めの
変われば変わる世の中やと
見るに涙も止まらず
内の呈(てい)を見給えば
仏前に灯火立て
新しき、位牌に
忌み(いみ)絹(きぬ)覆い(おおい)
香華を供え、
兄弟諸共、ひれ伏して
只、消え入りてぞ、泣き給う
網戸の外には、二人の僧
互いに目と目を、見合わせて
泣くより外の事はなし

時に、さいかん、余りのいたわしさに
「いかに、我が君様
かくと、名乗らせ給え」
と言えば、ぜんぐ聞きて
「ああ、愚かなりさいかん
もっとも、父ぞと名乗り
喜ばせたきものなれども
さあれば、仏の金言に背く
今生は、これ、仮の宿り
古き歌にも

いつまでと
のどかにものを
思うらん
時の間をだに
知らぬ命に

と聞く時は
ただ未来こそ誠なれ
こなたへ来たれ、さいかん」と
打ち捨て、出で給う
思い切りたるその有様
二目とも見られぬ道心の
志(こころざし)こそ殊勝なれ

去るほどに、兄弟は
嘆きて叶わぬことなれば
「教えの如く、
海津にまします、姉君に
いかにもして、尋ね逢い
母上の御遺言(ごゆいげん)
また、父上の御事も語り参らせ
我々が身の上も頼むべし
此方へ来たれ、菊若」と
大人しやかに人々は
旅の装束なされける
いたわしや兄弟は、
未だ、年丈(としたけ)給わねど
習わぬ旅を滋賀の浦
道しるべする物とては
野辺の草木(そうもく)谷川の
おし(鴛鴦:おしどり)や鴎(かもめ)の声ならで
事問う物は、更に無し

何時しか、慣れし、滋賀の里
今日、秋風に誘われて
声、珍しき虫の音に
一夜二夜は、三井寺の
鐘、諸共に泣き明かす
恋しゆかしきその人に
いつか、粟津の原からも
手に手を取りし
手繰り(てぐり)の舟
綱手にもるる舵枕
川柳は、水に揉まるる(もまるる)
おし(鴛鴦)や鴎(かもめ)は、風に揉まるる
翼だに、
三つ四つ、連るるは、親、兄弟(けいてい)なるものを
ああ、さて、もの憂や我々は
父にも母にも、姉上にも
いつしか、今は、見捨てられ
頼り無き砂(さ)の浜千鳥
伴う(とものう)ものは、影ばかり

姉は弟の、手を組みて
登る雲井の、坂本や(大津市坂本)
山田の浦の(草津市)夕凪に
手事はおろす、釣り竿の
直なる(すぐなる)御代に、かくまでは
濁り、染めにし、我々が
行く末知らばの、矢橋(やばせ)より
今津、海津(※琵琶湖畔:高島市)に
と渡る舟は、
伝教大師の御靴の
姿を描し(びょうし)円頓の
人の心の丸太舟
かたたせんとうの(?堅田船頭)
つまにはいやよ(?)
月に二十日は
おきすむつまがぬれ(?)候
磯打つ浪に
浜(はんま)ちんちん、千鳥が
寄せ来る波に
揺られて、揉まれて、
とどろもどろと(※ととろもとろ)
ちりや、ちりや
はらはら、ほろほろ、はらはらと
笠に木の葉が、吹き下ろす
すげお寺(?)の鐘の声
今日も暮れぬと、告げ渡る
後ろは日吉山王や
鷲の御山(わしのござん:比叡山)を眺め越し
かく浅ましき、我々が
姿を映す、鏡山
曇り果てたる我々が
面影、映す、恥ずかしや
野暮れ、山越え、浜路を行き
ようよう、辿り行く程に
小松にこそは着き給う
(※大津市志賀町北小松?)

いたわしや、菊若殿
習わぬ旅の疲れにや
かしこにかっぱとまろび給いける
姉は、いとど、悲しくて
「誠に、おことは、この頃は
嘆きに亡して(ぼうして)
食事も心に任せねば
それ故、苦しきものならん
何がな、参らせたや
いかがわせん」
と、辺りを見れば
さも、いつくしき花ふり(瓜)の
餘××(まり)しをご覧じて
蔓押し分けて、一重(え)取り
「のう、これをなりとも、食し給え」
若君、嬉しく思し召し
忝なしと、押し頂き
既に、食せんとし給う時
そばに在りし、かかせ(※かかしノコト)の内より
大の男の子飛んで出で
兄弟の人々を
情けなくも、取って押さえ
「この頃、夜な夜な、このふり(瓜)を
盗み、荒らせし、曲者は
おのれにて、有りけるな
さて、腹立つや」と
杖振り上げ、散々に打ちければ
姉は、弟に立ちふさがり
「のう、情けなや
この若は、何も存じ候わず
皆、これ、わらわが仕業なり
打ちて、腹だに入るならば
わらわを、打って給われ」と
い抱きついてぞ、泣き給う
件の男、はったと睨み
「おのれ、とても、容赦はせじ」と
又、杖の味わいをよっく覚えよと
殴りかけて、打ちければ
ようよう、弟は起きあがり
「あら、恨めしの仕業やな
姉御は、女のことなれば
ただ、何事も、許してたべ
いか様とも、それがしを
苛み(さいなみ)給え」と嘆かるる
さて、小賢しき小せがれやと
拝み打ちに、叩き伏せ
起きあがれば、打ち倒し
散々に打ちちらし
この頃の存分は晴れたりと
気色ほうて(呆)帰りしは、
凄まじかりける次第なり
哀れなるかな兄弟は
習わぬ旅の疲れの上
思わぬ、邪険の杖を受け
目も眩れ、心も消え消えと
絶え入るばかりに、見え給う

ようようとして
姉は心を取り直し
「のう、菊若
このところに、長居せば
またもや、憂き目に遭いもやせん
さあ、歩み給え」とてを引けば、
若君、げにもと思し召し
立ち上がらんとし給えど
五体、竦み(すくみ)て叶わねば
「あら、悲しや、姉君様
最早、一足も、引かれぬは
こは、そも、如何なる因果ぞ」と
悶え焦がれて泣き給う
ようよう、涙を抑え、若君は
「のう、如何に、姉上様
最早、この体(てい)にては
自らは、行かれまじ
去りながら、時刻移さば
また、先ほどの
邪険の者や来るべし
それがしは、捨て置いて
海津の里へ、行かせ給え
もしも、長らえ有るならば
重ねて、迎いを給わるべし
早、疾く疾く
急がせ給えや」と
のたもう声も打ち萎れ(しおれ)
また、消え消えとなり給う
姉はいとど、悲しくて
「御身に、離れ、自らが
誰を、頼りにあるべきぞ
叶わぬまでも、自らが
肩に掛けて行くべきに
いざ、こなたへ」と肩に掛け
涙ながらに、一足の
たよたよと
薄氷を踏むごとくに
拾わせ給う御有様
哀れなりける次第なり

あら、いたわしや姫君は
心は弥猛に早れども
強く打たれしその上に
日は暮れかかる
道の案内は知らず
木の根に躓き(つまづき)
かしこにかっぱとまろび給う
若君、これはと起きあがり
「のう、姉御様
心は、何とましますぞや」
姉は、弟が手を取りて
「おことは、怪我ばし、し給わぬか
最早、この体にては、一足(ひとあし)も行かれまじ
ここにて、一夜を明かすべし
こなたへ寄り添い給えや」と
袖と袖とをかき合わせ
方便(たづき)も知らぬ山中に
嘆き、沈みておわします

かかるところへ、老人一人(いちにん)
薪(たきぎ)を担い(にない)
このところを、通りしが
この人々を見るよりも
「やれ、おことらは、
何として
このところに伏しけるぞ
ここは、名に負う、荒れ野にて
虎狼野干の住み家なり
無惨やな、汝らは、
犬、狼の餌食とやならん不憫さよ
こなたへ来たれ」と
兄弟の人々を
弓手、馬手に抱い込み(かいこみ)
軽々(かろがろ)とい抱き上げ
海津の浦に着け給う
この人々の心の内
嬉しきとも、なかなか、申すばかりはなかりけり


五段目

 

かくて、その後
右大臣、頼忠卿
尾州熱田の明神へ、参詣あり
御下向に、長浜より、舟に召し(滋賀県長浜市)

春風、心に任せしに
秋の日の頼り無きは
俄に空、掻き曇り
波風荒く、大雨しきりに降りければ
ひとまず、何方へも舟を寄せ
風雨を凌げ(しのげ)とありければ
承って、船子ども(ふなこ)
櫓櫂(ろかい)を早め、帆を下ろし
海津の浦へぞ、上がらせ給う

浦にもなれば、思わずも
弥三太(やそうた)が館(たち)に御入りあり
(※弥三太は初出である。菖蒲を拾った漁師)
夫婦は驚き、表に出で
「こは、冥加なや」とばかりにて
頭(こうべ)を地に着け、居たりけり
頼忠、奥に、入らせ給い、見給えば
思いも寄らぬ、さも優(ゆう)なりし姫君の
十七八と打ち見えて
裏山吹の十三きぬ(衣上)重ね(うわがさね)
紅(くれない)の袴添え
後ろのいこう(衣桁)に掛けられたり
頼忠、つくづく、ご覧じて
心も空に浮か浮かと
世には、代わる上﨟も
ありつるものかとばかりにて
守り、詰めて、おわせしが
やや、有りて、頼忠卿
主夫婦(あるじふうふ)を召されつつ
「さて、この姫は、何処(いづく)、如何なる姫ぞ」
弥三太、承り、
右の段々、有りの儘に申す上げる
頼忠、聞こし召し
「神妙(しんびょう)に申す者かな
用あらば、此方(こなた)より尋ぬべし
ひとまず、休め」とありければ
承り候と、主は、奥にぞ入りにける
さて、その後に、若君は
寝るも寝られず、恋衣(こいごろも)
一夜の夢かまし、邪物、なかなか、
今はあじきなや
一目、見初めしその姿
忘れんとすれど、忘られず
一人、心も×た(?ただただ)と
人には言わで、岩代の
松風そよぐ、夜もすがら
心も空に浮かれ出で
姫の一間に忍び寄り
「さて、さて、御身は、これにましますぞ
都にては、いかなる人ぞ
名乗り給え」とありければ
姫君も、顔、振り上げ
つくづくとご覧じて
「恥ずかしや、身は、卑しき
海女の子にて候が、
見奉れば、都人(みやこびと)
何とて、かかる埴生の小屋に
来たらせ給う、転(うたて)さよ
帰らせ給え」とのたまえば
若君、なおも、憧れて
「何しに、海女の子なるべき
げにや、紅(くれない)は
園生(そのう)に植えても、隠れなし
如何に、包ませ給うとも
只人とは、思われず
ありのままに、語らせ給え
よし、それとても
やごと無き(※やんごとなき)御姿
ちらと、見初め参らせ
心も空に憧れて
旅寝の床に伏し沈む
哀れと思し召せや」とて
打ち萎れてぞ、口説かるる
姫も心は、なよ竹の
木折りにならん、恋の道
御心をも、出しがたくは思えども
「恥ずかしながら、自らは
結び置きにし、人あれば
何と仰せ候えども
身は浅ましき、捨て小草(おぐさ)
ただ、このままに朽ち果てん
許させ給え」と、のたまえば

頼忠、なおも、離れがたく
「さて、結び置きにし縁(えにし)とは
いかなる人にて候ぞ
誠ならば、つつまず語り給うべし」
姫君は聞こし召し
語るまいとは、思えども
君の御心、切なれば、
「さのみは、いかで包むべき
その自らが
夫と定めし、その人は、
名を言うも恨めしや
都、関白殿のご子息
右大臣頼忠卿と申し候
自らはまた、中将有末が娘
まこもの前」
(※明かな誤刻と思われる:菖蒲の前でなければおかしい)
と、のたまえも果てぬに
右大臣驚き
「のう、心得難や
我こそ、右大臣頼忠なるが
その菖蒲には、
我、一度対面し
それ故、暇を参らせしが
心得難し」とのたまえば、
姫君は、心得ず
「あら、不思議や
自らは、ついに、御身様には、まみえし覚えは候わず
して、その証拠の候か」
大臣、申さるるは。
「いつぞや、西の対の御殿にて
我、卑しき者に様を変え
手ずから、去るの綱を引き
忍び参りて候が
その時、見参らせしは、
正しく、御身にては無し
心得難や」とありければ
姫君、聞こし召し、思い当たりて候
「自らが為には、継母にて御座あるが
その人の計らいにて
御身様と自らが
縁を切らせん、その為に
卑しき水仕を騙たらい(かたらい)
企み(たくみ)給うと承る
今まで、かくて候も
これまた、継母の業なり」と
ありのままに、語りたまえば
大臣、横手をちょうど打ち
「浅ましや、神ならぬ身の悲しさは
さほどの御心とも、知らずして
由なく、疎み(うとみ)参らせし
我が身の程こそ、愚かなり
片紙も、長居は無役(むやく)なり
いざ、伴わん」とありければ

折節、雨風(あめかぜ)、静まりければ
夜に紛れて、連れ行くべしと
取る物も取りあえず
姫君を輿(こし)に乗せ参らせ給えば
お供の人々、やれ、殿のお立ちあると
追い追いに浜路の方へと出でらるる
去るほどに、夫婦の者
後を慕うて、追いつき
いかに、都人、
何とて、その姫を連れて行き給うぞ
放ちはやらじと、慕い行けば
僕(しもべ)ども、立ち帰り
何の、分かちも弁えず(わきまえず)
「ええ、推参なる土民や」と
夫婦諸共、縄を掛け
浜路を指して急ぎしは、転(うたて)かりける次第なり

これはさておき         
「ぜんぐ坊」や「さいかん」は、
仏道修行のそのために
伊吹の麓に草庵を結び
江州七浦を、夜な夜な修業なされしが
折節、大雨、しきりに落ちて
暗さは暗し、行くべき先も
見えわかず
激しき雨に道を忘れ
さしもの道心、呆れ果て
しばらく、佇み(たたずみ)給いけり

しかるとこに、有り難や
俄に光り輝きて
道、白々と顕わ(あらわ)なり
こは、忝なしと観念し
辺りを見れば、
そばなる朽ち木より
光明、出で
十方(じっぽう)を照らし給う
不思議に思い、立ち寄り見れば
十一面観世音、忽然と、立たせ給う
「さて、有り難や
今に始めぬ、大師大悲(たいしだいひ)
立つと見ても、なお、余りある
去りながら、めでたき、御尊容(ごそんよう)
激しき雨に、濡らし申す御事は
いかにしても、もったいなし」と
着たる笠を脱ぎ下ろし
やがて、仏に着させ参らせ
しばらく、回向し、それよりも
浜路を指して、巡らるる
心の内こそ殊勝なれ

弥三太夫婦は、思いも寄らぬ難に遭い
互いに、目と目を見合わせ
涙に暮れたるばかりなり

既に、その夜も、明ければ
いたわしや、兄弟は、
千里を凌ぐ(しのぐ)心地にて
ようよう、海津に着き給うが
この有様をつくづく、見て
近く、立ち寄り
「のうのう、方々、に物問わん
この辺りの漁夫に
海津の弥三太と言う人の養子に
当年、十八になり給う
姫君のおわすべし
そのありかを教えてたべ」と仰せける
夫婦の者、承り
「のう、情けなや、我々は
その上﨟の御ために
か様に、縄目に及びたり
その姫、都より、天上人とやらんの来たり
理不尽に連れ行き給う
会いたくば、都の方へ問い行き給え」
と、愛想なげにぞ語りける

あら、いたわしや二人の人
「さて、情けなや、我々は
いかなる因果の報い(むくい)にて
父上様には、生き別れ
母には死して離れ
また、姉上、一人を頼りにて
遙々、尋ね参りしに
それさえ今は、都に上り、ましまさず
これまで、尋ね来るさえ
世に耐え難く思いしに
都までとは、叶まじ
あら、浅ましの我々や」と
口説き立ててぞ泣き給う

ややありて
「のう、菊若
とても、この身は、埋もれ(むもれ)木の
昔の春には、会い難し
いざや、ここにて、身を沈め
来世にまします母様と
ひとつ蓮(はちす)に参るべし
最早、思い切り給え」と
涙ながらにのたまえば
弟も涙を、押しぬぐい
「ともかくも、姉上の仰せをいかで、背くべき
片紙も最期を急がせ給え
いざ、こなたへ」と、手に手を取って
既に、こうよと見えし時

老人、走り出で
兄弟をい抱き止め
夫婦が輪を切りほどき
さて、老人は、
夫婦に近づき
事に子細を尋ぬれば
弥三太、初め終わりを語りける
老人、聞こし召し
「それは、定めて、下々の業ならん
申し訳して、取り返さん、こなたへ」と、伴いて
頼忠の後を、慕うて追いくる

去るほどに、頼忠殿
姫君諸共
浜路に出で
御舟に、召されんとあるところにへ
件の人々追いつき
初め、終わりを申し上ぐれば
姫君も、兄弟も、
これは、これはとばかりにて
嬉し泣きにぞ、泣き給う

しかるところに、
父道心、さいかん坊とうち連れ
浜辺を通らせ給う時
老人、声を上げ
「のういかに、人々
これこそ、方々が父上にてましますぞ
名乗り給え」とありければ
姫君、夢とも弁えず(わきまえず)
「のう、父上にて、ましますか」と
三人諸共、取り付いて、
ぜんぐ坊も、今は早
さのみ、辞すべき様(よう)もなく
そのまま、涙にむせばるる
大臣殿も、涙をとどめ
恥ずかしながら、右の段々
語らせ給い、悦び給うは、限りなし

老人、つつ立ち上がり
「いかに、兄弟、見忘れたるか
いつぞや、小松の宿にて
難儀に遭いしを
それがし、海津の浦まで送り置き
今又、命危うきも
この老人が救うなり
いかに、ぜんぐ、
我を、誰と思うらん
和僧(わそう)が、笠を与えし観音なり
誠、信心、堅固ならば
尾州、鳴海に連れ行き
一宇の伽藍、建立せよ」と
のたもう、御声の下よりも
忽ち、十一面観音と
拝まれさせ給いしは
有り難かりける次第なり

さて、善ぐ坊
参拝あって
急ぎ、御厨子に移し奉り
お悦びは限りなし
それよりも、大臣殿
主(あるじ)夫婦を召され
この度の褒美とて
かの浦にて、永代三百丁(町)をくだされける
有り難しと、御前を罷り立ち
宿所を指して帰りける
さて、有るべきにあらざれば
人々を伴いて
館を指して帰らるる
この人々の御有様
目出度しともなかなか
申すばかりは、なかりけり

六段目

去るほどに
右大臣頼忠卿は
人々を伴い、
急ぎ、館に立ち帰り
お喜びは、限りなし
されども、善ぐ道心は
大念仏の行者にて
勇み給う気色もなく
頼忠に打ち向かい
「これに、有り難く、候え共
思う子細の有る間
四明(しめい)の洞(ほら)に庵室結び
(※【四明ヶ岳】比叡山(ひえいざん)西の山頂)
この観音を守り参らせ
菩提の道を祈るべし」
とのたまいて
かくて、庵を引き結び
ご本尊を据え奉り
合掌して、
「おうぎ(奥義)願わくば
愚僧、念ずる所の
誠を拝ませ給われ」と
肝胆砕き、祈らるる

あら、有り難や、ご本尊は、
夜半ばかりの事なるに
枕に立たせ給いつつ
「如何に、善ぐ、
汝が心底、殊勝なり
その義ならば、明日より十七日
四明の洞に籠もりつつ
しばらく、じょう(定)に入るべきなり
必ず、拝ませ、得させん」と
あざ(鮮)に仏勅ましまして
夢はそのまま醒めにけり
善ぐ、なのめに思し召し
あら、有り難やと、仏前を伏し拝み
それより×(も)岩屋を指して、入り給えば
さも、びょうびょうたる野原に出で給う
見れば、六筋の道あり
何処にか、浄土へ行く道と、
しばし、佇み(たたずみ)給いける

懸かるところへ、北の方より
白き犬、忽然と来たりつつ
善ぐ坊の裳裾(もすそ)をくわえ、
北の方へ行かんとす
また、南の方よりも
黒き犬、駆けきたり
かの犬を散々に食い散らし
善ぐ坊の衣をくわえ
さも、懐かしげに
取り付き飛びつき
狂いけり
その時、、最前の白犬起きあがり
黒き犬と
算の乱して、食い合いしが
両方、互いに、
朱(あけ)になりてぞ、取り合いける
懸かるところへ
大の熊、駆け来たり
かの、黒犬を、
二つにさっと引き裂き
白き犬を先に立て
行き方知らず、失せにけり

善ぐ、不思議に思し召し
暫く、思案しておわします。

また、西の方より
御僧一人、来たり給い

「いかに、善ぐ
汝、知らずや
最前の白犬は、
おこと家族の、昔の御台なるが
娑婆に執着(しゅうじゃく)深き故
煩悩の犬となり
汝を見て悦び
連れて行かんと、さてこそは来たり
また、黒き犬は、当御台
おのれが、悪心に引かれ
畜生道に、かく落ちて
昼夜に苦しみ、受くるなり
また、件(くだん)の熊と見えしは
汝が、下の水仕の糸竹なり
当御台に恨みあり
かくは、仇を報じたり」
また、傍らを、見せ給えば
二十歳(はたち)ばかりの女の獄卒ども
鉄(くろがね)の×(く)いに
逆さまに吊し(つるし)
下より、みょうか(猛火)を扇ぎ(おうぎ)立て
火炎となして、失せにけり
善ぐ、
「あれは、如何に」
と尋ね給えば
御僧、答えて
「あれこそ、娑婆ににありし時
夫(おっと)の目を眩まし
道に違いし、不義たる故
あの如くに苦しみ
万劫を経て
無限に堕罪(だざい)申すなり」と仰せける

所へ、三十あまりの男を
獄卒、頭中(とうちゅう)を鉾(ほこ)にて貫き
目より高く、差し上げて
そのまま、地獄へ落とせしは、
身の毛もよだつばかりなり
御僧、のたもうは
「あれ、見給え、最前の女と
密通いたせし者にてある
去るによって、かくの通りに、苦を受くる」
さて、向こうを、ご覧あれば
紫雲たなびき、音楽聞こえ
花降り、弥陀、来迎なされつつ
則ち、善ぐ坊の二人の御台
糸竹諸共、救い取らせ給えば
光を顕し、天上有るこそ、有り難けれ

さて、その後に、仏勅有り
「いかに、善ぐ
汝、娑婆へ帰りなば
尾州、成海に堂を建て、
それにまします、観世音を守護いたし
末世の衆生を利益せよ
しからば、参詣の者どもを
極楽の縁と、なすべし
早、早、急げ」と
仏勅あり、浄土に帰らせ給いける

善ぐ、感涙、肝に命じ
五体を地に付け、礼拝あり
やや有りて、御僧、禅ぐに打ち向い
「急ぎ、四明に帰りつつ、仏勅に仕うべし
我こそこれ、日々、汝が安置せし
大悲観音薩埵 (だいひかんのんさった)なり
汝、善哉、善哉」
とのたまいて
虚空に、上がらせ給いけり
善ぐ、御後を、伏し拝み
目をふさぎ、観念あれば
忽ち、夢の如くにて
寂寞(じゃくまく)として
座し給うは、不思議なりける次第なり

かくて、頼忠は、善ぐ坊の
定に入らせ給うと聞き
夫婦諸共、御見舞いに来給い
これは、これはとばかりなり
善ぐ、仰せける様は
「愚僧、冥途へ参りしが
母に会い、則ち糸竹諸共に
成仏致し候なり
また、弥陀如来の仏勅に
か様、か様のお告げなり
この観世音の
御堂、建立いたすべし
御身(おんみ)も、一入(ひとしお)
このことを、奏聞ありて、給われ」と
皆々うち連れ、それよりも、内裏を指してぞ、上がらるる

禁裏になれば、初め終わりを奏聞あり
御門、叡覧ましまして
「珍しや道心
汝、仏道堅固なる故
懸かる奇特を拝むこと
有り難き次第」とて
忝なくも、玉の御頭(かぶり)を
傾けさせ給うぞ、有り難き
重ねての宣旨には、
「急ぎ、尾州、成海にて
御堂、建立いたすべし」と
則ち、りんよ(?)善ぐ大上人と
薄墨の御綸旨(りんし)、下されたりければ
有り難し、有り難しと
御前を罷り立ち
急ぎ、成海に下りつつ
御堂、建立ましまして
既に、供養と聞こえける

出で、そのころは
人皇(にんのう)六十三代冷泉院の御宇
卯月(旧暦4月)十八日
導師、善ぐ上人、高座に上がらせ給い
啓白(けいはく)の鐘、打ち鳴らし
「そも(抑)、此の観世音菩薩は
忝なくも、しょうじゃ(聖者)一同
みれい(?御礼)して刻ませ給う
正身の尊容(そんよう)なり
信心美妙(しんじんみみょう)
の御利益
一度、歩みを運ぶ輩は(ともがら)
現、当二世、無常菩提、疑い無し
南無阿弥陀仏と
御十念を下されける

さてこそ、尾州成海
天林山笠覆寺(てんりんざんりゅうぶくじ)
本尊、笠を召す故に、笠寺(かさでら)とも申すとかや
天下太平仏法繁盛
目出度しともなかなか、申すばかりはなかりけり

 

 

右この本は
天満八太夫 武蔵権太夫
太夫元重太夫
直伝に正本を以て写之令開板者なり
未の五月吉祥日 伊東板