説経正本集第1(14)

越前国永平寺開山記

結城孫三郎
元禄二年(1690年)

 

初段
さてもその後
つらつらと思んみるに
道、明かなる者は家を立て
その身を全うする事
邪(よこしま)なれば家滅び
身を失う事
なん(男)女に限らす

ここに越前の国
吉祥山永平寺の開山
道元禅師の由来を詳しく尋ぬるに
後鳥羽の院の御宇に及んで

高家一人おわします。
村上天皇より九代の孫

源中納言道忠卿と申しける
内には、三宝仏陀(さんぽうぶっだ)を礼し(らいし)
外には、五乗をもっぱらとして

礼儀を正しう取り行い
御子三人おわします

一は神童丸とて御年十五歳になり給う
二歳の御時、
乳房の母に後れさせ給い
御成長に従い
明け暮れ母の御事忘れさせ給わず
御菩提問わせ給いける
さて、その次ぎは
金若丸(かなわかまる)とて十三歳
御妹松代姫(まつよひめ)
当年二歳になり給う
同腹(どうぶく)の御母は、
金道卿の姫君にて
三十二相の御形(おんかたち)

あさからざりし御仲なり
さてまた家の執権には
更級ゆきへ(行家カ)光虎(みつとら)とて
道忠すだい(譜代カ)の家臣なり
さてまた、御台の御乳母(めのと)
木下将監行正(きのしたしょうげんゆきまさ)
彼が一子、梅王とて
十四歳になりにけり
何も劣らぬ若者
君を守護し奉る
この道忠の御果報をうらやまざるはなかりけり

ある時中納言
二人の郎等召し連れ
「五十に及ぶ身の
明日をも知らぬ命なり
君に奏聞申しつつ
神童丸を参内させ
我ら、仏道一筋に
願うべきと思うなり
幸い吉日めでたけれ
家中へ触れをなし
言い渡すべき子細あり
その用意仕れ」

畏まって候と
御前を罷り立ち
思い思いの献げ物
華やかなりける次第なり
既に時刻になりしかば
道忠、座上にならせ給えば
御兄弟の若者たち
次第に座上なされける
さて、その次ぎは更級、木下
家中の面々
ぎぎ(巍巍)堂々になおらるる
ややあって、道忠仰せける様は
「いかに面々、
我、齢(よわい)かたぶけば(傾)
心細く思う故
神童丸を参内させ
世を楽々と送るべし
又、方々も、今より後
我に忠孝あるように
若を取り立て給うべし
いかに神童丸
おことは未だ
幼児なれどもおとなしく
君に忠孝、私(わたくし)なく
五乗を守り、慈悲深く家を治め
身を立てよ
我無き後は、母に孝行尽くしつつ
更級、木下両人を我ぞと思い
諸事につけ背くまじ

さてまた、二男(になん)金若丸
兄に礼儀を正しくして
更級、木下諸共に
家の政道執り行い
少しも背くことなかれ
そじ(素地)は家臣に劣れるもの
よく心を尽くすべし
さてまた、太刀二振り
大は三條小鍛治が鍛えたる

松風という剣なり
小は村雨と名付け

天国(あまくに)の名作なり
是は、代々家に伝わるなり
さるによって
大は、総領神童丸
小は、金若丸に取らするなり」と

御盃(おんさかづき)に相添え

御兄弟に下され
それより巡る小車(おぐるま)の
数の盃
千代は降る共変わるまじ
千秋楽の御祝い
皆々、御暇給わり
宿所(しゅくしょ)宿所へ帰りけり

去るほどに、世の中の習いとて
女心のはかなさは
当御台の心得
つま(夫)道忠の御言葉
聞くもなかなか、腹立ちやと
早、悪心の思い立ち
御乳母(めのと)木下将監を
密かに召されける
将監、何事やらんと
急ぎ御前に伺候(しこう)す
御台ご覧じ、何とも物はのたまわで
さめざめと泣き給う
将監見参らせ

「こは、おぼつかなき御有様
いかなる御事に御座候」と
色を変えてぞ申しける

御台聞こし召し
「わらわ程、果報拙き(つたなき)者はなし
それを如何にと思うらん
あの金若を懐胎なすべき折りからは
仏神(ぶっしん)に祈誓をかけ
誕生なれば成人するに従い
器量優れ温和しく
如何なる高家殿上人にも劣らじと
心の内嬉しくて
いつか十にも十五にも成人ならば
源の家をも継がせ見ばやと
思う心を引き替えて
神童丸が家来となり
末の栄華も無き事は口惜しや」と
涙に暮れさせ給いける

将監承り
「こは、もったいなき仰せかな
さすが、五條の金道卿のご息女とも
覚えぬものかな
神童丸殿は、
先腹(せんぶく)の御総領
金若丸は御二男(ごじなん)にて
御家(おんいえ)継がせ給わずとも
何の御うらみ候べき
人も聞けば
御ため悪しく候なり」と
たって諫言申しける
御台聞こし召し
「さては、汝も、最早我を見捨てつつ
神童丸を世に立てて
金若をば、有りやなしやと思うよな
よしこの上は、汝をば頼まじ罷り立て」
とぞ仰せける
将監、きっと思案して
「お腹立ちの段、ごもっともに候なり
しかれども、金若丸の御心(おんこころ)
如何、渡らせ給うらん
御内談候て
ともかくも仰せに従い候べし
この儀、いかが」
と申しける

御台聞こし召し
「何、金若は我が子なり
母が心は背くまじ
去りながら、召しよせ
この事聞かせ喜ばせん
金若召せ」
と使い立て
若君、何事やらんと
母の御前に出でらるる

母上、ご覧じて
「いかに金若
今日、父の仰せを聞き
さぞや無念に思うらん
わらわも炎(ほむら)を焦がすなり
それに付け
将監を頼みつつ
今宵暗きに紛れ
人知れずに
神童丸を失いて
御身を家の総領に立てんとの
内談なり、喜び給え」
と仰せける
金丸、はっと思し召し
「こは、もったいなき仰せかな
某(それがし)は二男にて
なにとて家を継ぎ申さん
それがし、若年なる者にて
兄上に、粗略(そりゃく)に当たり申すかと
心を引いて見給うらん
まったく左様に候わず
お心安かれ」と
にっこと笑い仰せける

母上、由を聞き給い
「いやとよ、左様の事にてなし
神童丸を世に立て
継嗣(けいし:継子)にかかり心憂く(うく)
ごせ(後世)の道をも打ち忘れ
朝夕炎(ほむら)をおかしなば
なんぼう無念の次第なり
何卒、御身を世に有らせ
浮き世の中を楽々と思う望みなり
御身は未だ幼稚にて
物の分かち知るまじき
ただ何事も母に任せ給うべし
いかに将監
はやはや、望みを叶えよや」
将監承り
「ただ今、若君の仰せをば
何とお聞き給うらん
御子ながらも恥ずかしく
仏勅なりと思し召し
御とどまり候てしかるべき」
とぞ申しける

若君、由を聞こし召し
「さては、母の悪心
もったいなき御事かな
神代(かみよ)よりこの方
継子継母の悪心を
数えて言うに言(ごん)なし
左様の悪逆は
末代諸人のあざけりなり
思し召し御とどまり候え」と
消え入る様に泣き給う

母上、道理に詰められて
とこうの返事をましまさず
さしうつぶいておわしますが
面色変わってのたまうは

「さては、汝らは
我が命を背き
悪人なりと人々に言い
笑わせん心なり
今より後は、金若よ
母、持ったると思うまじ
わらわも子有りと思わぬなり
将監もろとも、七生(しちしょう)の勘当ぞや
命長らえせんもなし
死して恨みをはらさん」と
守り刀をひん抜いて
既に自害と見え給う

将監慌てて押しとどめ
「こは、短慮なる御有様
お命には代え難し
若し(もし)そんせ(存世)は君のため
命はご恩に奉る
若君いかに」
と申しける
金若聞こし召し
「この上は力なし
ともかくも計らうべし
のう如何に母上様
れんし(廉士)の礼儀候上

一旦か様に申すなり
母上の仰せに背くまじ
御とどまり候え」
と申しける
母上、由を聞こし召し

「あふ(おう)さぞあらんかな若よ
何に付けても御身がため
悪しき事を言わぬぞや
はやはや急げ将監
静かなれや金若」と
簾中(れんちゅう)に入り給う
心の内こそおそろしけれ

これはさて置き、神童丸
乳房の母の御事
へんしも忘るる暇もなく
花を摘み、香を焚き
とんしょう 菩提 一回向あり
涙に暮れておわしますが
とても帰らぬ冥土の旅
まして女人は
後生、三趣(ごしょう、さんしゅ)に選ばれ

成仏難きと聞くからに
せめては、か様の功力にて
仏果菩提の御ためと
法華経読誦なされつつ
ああら恋しの昔やと
消え入る様に泣き給う

かかるところへ
金若丸、御前に畏まり
「父上様お召しにて候えば
はやはや御出でましませ」と
誠しやかに申さるる
神童丸聞こし召し
「いかなる御諚の有るやらん
いざまいらん」と
既に出でんとなされし時

金若、御袖を控えつつ
「のういかに兄上様
御身の召されし御小袖
あまり模様の美しく
それがし、望みに候へば
給われかし」
と仰せける
神童丸聞こし召し
「易き程の望みかな
所望ならば参らせん」
とのたまいて
上ほろ(幌?)取ってふわと脱ぎ
金若に参らせて
「やがて帰らん待ち給え
今宵はこれにて諸共に
語り慰み申さん」と
必ず、待たせ給えやと
いとしめやかに宣い(のたまい)て
立ち出で給う御姿
今ぞこの世の見果てかと
思うに余る御涙
隠し兼ねさせ給いけり

神道、あと振り返り
「こは、いかに金若よ
何とて嘆き給うらん
さては、父上様
ご機嫌悪しく、お怒りありけるか
もし、お怒り有りとても
それがし、参り申し
直して参らせん
心やすく思し召せ」

金若は聞こし召し
「いや、左様には候わず
御身ただ今立ち給い
歩み給う御姿
父上様の御面影に
いたくも似させ給うなり
父上、齢(よわい)傾(かたぶ)けば
明日をも知らぬ御命
父より後は兄上様
心足らぬ金若
御見立て給われ」と
今の名残は言わずして
かき口説いてぞ嘆かるる

神童丸は聞こし召し
「おお、心弱き金若や
たとえ、父上無きとても
未だ、母上ましませば
若年なりと諸共に
見育ててこそまいらせん
父無き時は神道を
父とも兄とも思われよ
ああ、心弱きおとと(弟)や」と
さも懇ろ(ねんごろ)にのたまいて
しずしずと出で給う

金若、いよいよ肝(きも)消えて
「兄弟理無き(わりなき)
別れをば御存なく
力を添えさせ給うぞや
のう、兄上様
今ぞこの世の見果てなり」と
言わんとすれど声出でず
そのままそこに伏しまろび
悶え焦がれ給いけり

「いや、おろかなり我が心
今にも将監忍び入り
この有様を見るならば
巧みし効(こう)も徒に(いたずらに)
現れんは治定なり
嘆くまじや我が心
さは、去りながら、今一度
父母の御顔(かんばせ)
拝みたくは思えども
心ばかりの暇乞い
神童丸の御小袖
上よりさっと打ちかけて
そばなるしょく(卓)に寄り添いて

最期、遅しと待ち給う
心の内こそ哀れなれ

かかる所へ
木下将監忍び入り
庭の籬垣(ませがき)押し破り

つま(端)と押し分け

つつと入り
神道丸と心得て

金若殿の御首
あえなくも打ち落とし
御小袖に包みつつ
外へつつと出で
息をほっと付き
心ならずの悪逆は
主命(しゅうめい)なりと観念して
と有る所に忍びけり
かの木下がその有様
行く末如何
危うしともなかなか申すばかりはなかりけり

 

二段目


 さるほどに、神童丸
父の御前に罷り立ち
さぞや、金若待ち給わん
今宵は夜共、語らんと
お共の小姓を召し連れて
御寝所(しんじょ)へ入り給えば
いたわしや金丸殿
あけに染みておわします
神童丸、はっと驚き
「こはいかに、何者の仕業ぞや
それ、余すな、討ち取れ」と
彼方、此方と探させども
人影更になかりけり

神童、あまりの悲しさに
甲斐なき死骸にいだき付き
「のう、金若よ、
いかなる者の仕業ぞや
例え、恨みの有るとても
まだ、いとけなきおとと(弟)を
××(?ただ)やみやみと殺す事
人間にてはよもあらじ
さてもさても邪険の仕業や」と

そのまま死骸に取り付いて
消ゆるばかりに泣き給う
御前なりし侍たち
道忠卿へ、この由上がれば
中納言、驚かせ給いつつ
御台諸共
神童丸の御寝(ぎょしん)所へ入り給い
御死骸に取り付いて
しばし消え入り給いけり

ややありて、中納言
「やあ、いかに金若よ
しん(心)な冥土へ通え共
はく(魄)はこの世にあるものを
敵(かたき)は誰(たれ)ぞと知らせぬぞ
せめて、父か母かとも
言(こと)を交わせ金若」と
悶え焦がれ給いけり
御台涙をとどめ
「やあ、いかに木下よ
金若が敵(かたき)こそ
ま(間・目)の前にあるべきに
敵を取って得させよや
やれ将監」と
消え入る様に泣き給う
神童丸、聞こし召し
「ご道理、理(ことわり)なり
尋ね出だし本望遂げさせ申すべし
御心安かれ」と
甲斐甲斐しくはのたまえど
今の別れの悲しさは
東西暮れておわします

侍達を紫衣立て

金若の御死骸
野辺に送くらせ給いけり
いたわしや当御台
あまりの事の悲しさに
御前に木下を召されつつ

「いかに将監
何かし、如何なる意趣ありて
金若をば打たるぞ
我が子返せ木下
金若戻せ、将監」と
伏し沈みておわします

やや有りて
「いかに将監、今宵の内に
神童が首打ちて見せよ
はや、疾く疾く」と仰せける
将監しばし案じ

委細畏まり(かしこまり)て
今宵の内に打ち申さんと
御前を罷り立ち
宿所をさしてぞ帰りける
宿所になれば、つくづくと安心して
「さても、是非なき次第かな
いかに、主(しゅう)の御意にても
一旦こそは請け申さん
重ねて(ひとう)厭うはなり難し
その上、道にもあらぬ宮仕い
なかなか思い寄らざるなり
去りながら、
我、命惜しみては
末代の恥辱なり
よし、これまでの浮き世ぞ」と思い定めて
一子、梅王を近づけ

「か様の次第にて
誤って、金若を打ち申す
これ、天命の期する所是非もなし
只今、生害を遂ぐるなり
汝、介錯仕り
首を神童丸へ持参して
この有様を一々に申し上げ
片紙(へんし)も早く
この館を忍び
御共仕れ
構いて構いて、梅王よ
父に代わりて
君に忠孝仕れ
悪事をなせし行正が
子の行く末を見よやと
諸人に指、指さるるな
父が死骸を家来、他人の手に掛けて
跡、見苦しくいたすなよ
早早、用意仕れ」と
さも、潔く(いさぎよく)は言われども
今が、我が子の見果てかと
さすがに猛けき(たけき)正行も
東西暮れて泣きいたり
梅王、つくづく承り
「仰せごもっともに候えども
去りながら、如何に仰せ候らえども
昔が今に至るまで
親の首を、子が切る例(ためし)無し
この儀においては
御許し給われ」と
涙に暮れて申しける
将監聞きて
「いやとよ、これには子細あり
金若殿を我が手にかけ
打ち申したる事なれば
冥途の責めもさぞあらん
今また、汝が手にかからば
罪を懺悔の心なり
介錯せよ」と申さるる
梅王重ねて
「何と仰せ候らえ共
御介錯においては御免あれ」
とぞ申しける
将監怒って
「汝は、未だ若年にて
物の分かちも存ぜぬよな
班足太子(はんぞく)は千王(せんおう)の首を取り、

一人足らじで、大願成就なり難しと
父、大王の首を切り
近くは義朝(よしとも)、父為義(ためよし)の首を切る
かかる例(ためし)は数多し
これにも承引(じょういん)いたずば
今生、後生の勘当」と
さも、荒らかに怒らるる

梅王、道理に詰められて
「しからば、是非も無き次第かな
この上は御意に従い申すべし」
将監喜び頓(とみ)て用意をしたりける

さて、将監は、大肌抜きに、肌脱いで
小脇差しを取り直し
心静かに、観念して
弓手の脇に、かわと立て
馬手へきりりと引き回し
「早や首取れや、梅王丸」
「心得申し候」と
太刀振り上げ
既に打たんとしたりしが
さすが親子のことなれば
目暮れ(めくれ)心も消え果てて
そのままそこに、倒れ伏し
泣くより外のことは無し

将監、きっと振り仰のき(あおのき)
「こは如何に、後れたるか梅王よ
最早、名残はこれまでぞ
早や、首取れ」
と怒りける
梅王、力及ばずして
南無阿弥陀仏と首落とし
そのまま死骸にいだき着き
泣くより外の事はなし
涙とともに
「こはいかに父上様
今まで物をのたまいしが
何とて物をのたまわぬぞ
御色変わり、目をふさぎ
あら浅ましの次第ぞや」と
甲斐無き首に取り付いて
消え入る様に泣き給う

涙を留め×××××のために
涙を止め
君の御前へ、右の次第申し上げ
件(くだん)の首を差し上ぐる

若君驚き
生首にいだき付き
「こは如何に、浅ましや
移り変われる有様かな
おことは、我に、愛おしみ(いとおしみ)
『御兄弟の若君たち
いつか成人なされつつ
御家督取らせ給うも
見ばや』などと言い置きし言の葉は
今は、か(彼)こと(言)もいたずらに

主命(しゅうめい)なれば力なく
我を打ったと思いつつ
金若を打ちしかや
我空しくなるならば
二人の者は殺すまじ
不憫の次第や」と
涙にくれさせ給いける
涙を留め、既に自害と見えし時
梅王、慌てて押しとどめ

「こは不覚なり、若君様
御命全うして
行く末目出度うあるならば
母上様の御恨み
遂には晴れさせ給うべし」と
たって諫言申しける

若君は聞こし召し
「申す所ことわりなり
去りながら
母上、立腹ましませば
とても逃れぬ命なり
卑しき者の手にかかり
殺されんは無念なり
思い切ったぞ
梅王丸
まずは、放せや、梅王丸」
「はなさじ」と
君に取り付くその暇に
互いに目と目を見合わせて
涙に暮れさせ給いける
梅王申す様
「仰せ、ごもっともに候えども
御自害なされなば
御身の科なき事
我が君へ申し上ぐる者もなく
金若丸の御事
神童丸がなす業と
諸事あざけり申しべし
御身に犯さぬ罪科(つみとが)を
諸人の口にかからんは
なんぼう無念の次第なり」と
たって諫言申しける

君、聞こし召し
「申す所、神妙(しんびょう)なり
この館には叶うまじ」
梅王、承り
「幸い、叡山に御叔父寺のましませば
あれへ落ちさせ給うべし
それがし、御共申すべし」
若君は聞こし召し
「その義ならば、落ち行かん」と

御書き置きをなされつつ
叡山指して落ち給う
二人の心の内
哀れともなかなか申すばかりはなかりけり

 

 

 

三段目

 

去る間、世の中の無常を猶も止まらず
いたわしや中納言
金若丸の御事を
片紙も忘るる事も無く
嘆き沈みておわします
かかる所へ
「神童丸、見えさせ給わず
御書き置き候」と
御前に持ち上がる
道忠、はっと驚きて
急ぎ開き見給うに
頓世(とんせい)の書き置きなり

こはそも夢か、悲しやと
消え入る様に泣き給う
御涙を抑え
「花のようなる若ども
一人ならず、二人まで失い
後に長らえ何となるべき身の果て」と
消え入る様に泣き給う

かかる所へ、
木下将監、自害の由
かようかようと申しける
道忠、涙の暇よりも
つくづくと思案して

「さては御台が仕業にて
かくは、なせる所なり
よしよし、なさぬ仲なれば
憎しと思うはことわりよ
さ程、憎しと思いなば
何とぞ所存もあるべきに
女心の儚くて
かくは死なせる恨めしや
それとても恨むまじ
我、悪業のなせる業
ただ恨めしき浮き世かな
あら恋しの子供や」と
口説き嘆かせ給いける

御前なりし人々を
やれ神童丸か
金若か
父は空しくなるぞかし
何卒ものを申さぬ」と
のたまう声も弱弱と
既に消え入り給いけり
侍たち驚き
水を注ぎ参らせて
お心付け申し
御台へかくへと申しける
御台驚き
姫君諸共御出であり
御介錯なされつつ
「のういかに、我が夫(つま)よ
御心取り直し
姫をご覧候えや
松代(まつよ)が参りて候ぞや
のう我が夫」と
中納言に取り付いて
消え入る様に泣き給う
道忠、心を取り直し
「何、姫か、こなたへ」と
御膝にいだき乗せ
「ああ、さて、不憫のこの姫や
父、空しくなるぞかし
我、露命消ゆるとも
二人の兄があるならば
末は目出度かるべきに
かくなり果てて明日よりは
誰やの人、哀れまん
孤児なりと侮って(あなどって)
憂き目をみせん不憫さよ
若も命長らえて
成長いたすものならば
二人の兄や我が後を
良きに弔い(とぶらい)得させよ」と
のたまう声も弱弱と
消え入り給う風情なり

又、目を開き
姫の御顔ばせ、つくづくとご覧じて
「やあ、松よ
幼くとも、父が言葉を
よく覚えよ
是は、家の系図なり
御身、成人いたしつつ
いかなる者ともあい(相)なれば
おことが子供の取らすべし
また、神童、長らえて名乗り合うこと有るならば
是を証拠にいたすべし
伝わる家の系図にて
守り神ともなるべし
必ず大事にいたせよ」と
御襟(えり)に掛け給い
「あら、恋しの兄弟や
さらばよ、松よ、侍ども
後をば、頼む」
とのたまいて
ついに、空しくなり給う

御台、悶えて、いだき付き
「のう、殿よ、我が夫(つま)よ」と
すがり付いてぞ泣き給う
御前の侍、中納言が御死骸
野辺に送り奉り
無常の煙となし給う
去るほどに、鳥野辺に送り奉り

煙は未だ立ちさして
消ゆる間も無き胸の火に
御台の悪心いや増して
家中の面々
女、童にいたるまで
日々に無実の難に遭いければ
たたずまんと言う者も無く
二人(ににん)、三人、内談して
忍び、忍び逃げ落ちて
さしも由々しき御館に
人、一人(いちにん)もなかりけり

蔵の宝も散り散りに
いたわしや北の方
今は館にたまりかね
姫君をいだきつつ
迷い出でさせ給いけり

心の鬼が身を責めて
浅ましかりける業(ごう)の程
憎まぬ者こそなかりける

これはさて置き
叡山におわします
神童丸や梅王にて
諸事の哀れを留めたり
いつ、習わしの山住まい
都の方を打ち眺め
「あの雲井のあなたこそ
恋し父の住み家なり
又、恨めしきも都ぞ」と
語り嘆きておわします

かかる所へ、譜代の侍
田代の源内来たり
「か様、か様の次第にて
君は空しくなり給う
それより御台の御悪心
日々に重なり候故
家中の者、疎み(うとみ)果て
皆、ちりぢりに罷りなり
一人も候わず
それがしも、館を密かに忍び出で
このこと知らせ申さんため
彼方此方を尋ねつつ
御目に掛かる目出度さよ
去りながら
譜代の主(しゅう)を見捨てつつ
迷い出でたる侍
何の用にも立つまじと
思し召されん恥ずかしや
知らせ申さんためばかり
命、長らえ申したり
お暇申してさらば」とて
舌をふっと喰い切り
遂に空しくなりにけり

二人は、はっと驚きて
「やれ、源内よ
田代よ」と
呼べど叫べど甲斐ぞなき
若君、涙を押し沈め
密かに死骸を葬り
僧都(そうず)の御前に出で給う

 御前になれば、
か様、か様の次第とて
つぶさに語らせ給えば
僧都聞こし召し

「さあらば、髪を下ろし給え」と
血筋と撫でし御髪(おぐし)を
四方浄土と剃り給う
墨の衣に召し替え
御前に出で給い
則ち、御名を、道元と改名(かいみょう)し
さて、梅王は、道正坊と付け給う

それより、両僧は宝蔵に入り給い

昼夜、学問怠らず
円頓止観(えんどんしかん)の窓の前には
蛍を集め、灯火(ともしび)となし
昼夜学問怠らず
是にも心留まらねば
道元、仰せける様は
「いかに道正
我、諸経を通貫(つうかん)するに
今、末世の衆生(しゅじょう)
成仏の素懐(そかい)を遂げんは
禅法(ぜんぽう)にしく(若く)は無し
しかれども、日本は小国なり
学び残せる事あり
末世の衆生、化度のため

命限りに入唐(にっとう)して

禅宗六祖の学びをも
直に(じきに)拝み申すべし
その用意いたされよ
去りながら、又帰らんは、不定(ふじょう)なり
僧都へお暇乞い申さん」

急ぎ、御前に出で給い
僧都を参拝して
か様か様と申さるる
ぢけん(※慈円カ)聞こし召し

「この上は、兎も角も
心に任せいたされ」と
御暇下され
かたじけなしと御前(ごぜん)の立ち
旅の装束なされける

殊勝なるかな道元は
早や、装束をなされける
頼む物には竹の杖
菅(すげ)の笠で顔隠し
まだ、夜(よ)を込めて出で給う

「衆生済度の旅なれど
また、帰らんも不定なり
行く末、何と白川や
瀬見の小川の立つ浪は
掛けてぞ遠き、旅衣(たびごろも)
いつ又帰り、来て見ん」と
後振り返り見給えば
平(比良)の高嶺に消え残る
ゆきげ(雪消・雪解)の空に霞立つ
道元、是をご覧じて
一首の歌に書くばかり
「今日出でて いつか来て(着て)見ん 唐衣
我が立つ(発つ)山の 雪の白くも(雲)」と
詠じ給い、それよりも
今宵はここに伏見の里
明日、行くの菖蒲(やめ)草(ぐさ)

菖蒲引きぬる男山

見てこそ通れ、石清水

澄み濁る世の人心(ひとごころ)
江口、神崎、過ぎ行けば
昔ながらの橋の跡

とめて難波の浦とかや
四方を遙かに見渡せば
天も花にえ入りや(?)
面白の景色や
あら、面白の景色や
高津(?)の浜の旧跡を
打ち眺め行く程に
弓手見れば淡路島
瀬戸の追い風吹き添いて
夕日に近き明石潟(がた)
砂(いさご)を天に吹き上げれば
雪の山の如くなり
塩屋の煙、ひと結び
立ち上がりたるはただ
海人(あま)の苫屋(とまや)の藻塩炊く

煙は雲に横折れて
しばしは曇る朧夜(おぼろよ)の
夢も驚く かち(舵)枕
涙も鳴門の沖を漕ぐ
漁り(いざり)の舟も行き交うる

かかる時にや高村

流刑の罪に伏せられて
都の方恋しさに
人には告げよと言い置きし

言の葉末も泡沫(うたかた)や
哀れも深き涙かな
絞りもあえぬ墨染めの
衣の袖やくちぬべし
浪間に見えしうき人を( 憂き人?)
松の浦は(?)あれとかや
浪間浪間の塩釜に
炊くや憂き身を焦がすらん
煙と消えは我々も
かかる憂き目に会うまじと
身を恨み、世を疎み(うとみ)
浜に下り給いつつ
唐船の出船あらば乗らんとて
しばし安らい給いける

かの道元の御有様
殊勝なるともなかなかに申すばかりはなかりけり

 

四段目

 

その後
道元、道正は
浜辺に休らい(やすらい)つつ
哀れ、唐船の出船あらば
便船乞わんと思し召し
かなたこなたと尋ね給う

老人一人(いちにん)舟漕ぎ来たり
「御僧達はいづくへ渡り給うぞや
唐舟(もろこしぶね)の望みならば乗せ申さん」
道元喜び
「幸いなれば、乗せてたべ、頼み申す」
とありければ、さらば召され候えと
舟漕ぎ寄せ、乗せ参らせ
夢かと思うその内に
明星津(みょうじょうつ)にぞ着き給う

その時老人
人々を舟より上げ参らせ
「いかに道元、我は是、加賀の国、白山の権現なり

御身、禅法極めつつ
必ず我が国へ来たれよ
守り神となるべし」と
光を放し失せ給う

二人、御跡、伏拝み
「あら、有り難のお告げや」と
いよいよ行く末頼もしく
なお祈誓をかけ給い

さて、道元道正は
とある所に休らい(やすらい)て
所の者の来たれかし
これより、天童山へ行く道を
尋ねばやと思し召し
四方を眺めておわします

かかる所へ、老人一人(いちにん)通らるる
道元ご覧じて
「のう、里人に尋ねたきことあり
我々は粟散国の者なるが
ある子細候て
天童山へ上がるなり
道をご存じあるならば
教えてたべ」と仰せける

老人聞こし召し
「何、方々は、日本の僧なるか
天童山に上がらんとは
深き願いの有るやらん
げに殊勝なる志(こころざし)
道しるべ申すべし
此方へ来たり給えや」と
先に立ててぞ歩まるる

老人、仰せける様は
「いかに、両僧、これより天童山へは程近し
去りながら、道の程も寂びしきに
物語申すべし
そも、唐土に仏法済度の霊地は多きその中に
天たい山(天台山
天童山
おうはく山(黄檗山:おおばくさん)
ちょうけい山(長慶山
これ、四つの名山なり

和僧達の望みは、
禅法の望みと覚えたり
日本より遙々と
入唐(にっとう)の志
あまりに殊勝に候故
道しるべ申すなり
末頼もしき御僧たち
此方へ、此方へ」と
先に進みて、急がるる
谷、峰、打ち過ぎ行く程に
天童山に着き給う
老人仰せける様は
「いかに御僧達
これこそは、天童山
よくよく拝み給うべし
そも、この山と申すは
れいくづ(霊窟)かか(華夏)として
岩滑らかに苔深く
谷、峙ち(そばだち)て雲埋ずみ
石巌(せきがん)砌(みぎり)に峙て(そばだて)

雲、空を翻し(ひるがえし)
八葉(はちよう)の峰には
八相(はっそう)浄土を型取り
月、真如の影を映せり

八つの谷には八功徳水(はっくどくすい)の
無明の水深し
晴嵐(せいらん)梢を払う響きは
法性、懺悔の声を顕せり

去るによって、使命の第一よ
心静かに拝まれよ」

両僧、
「こは有り難き教えかな
誠に日本にて聞きしは物の数ならず
殊勝なりける次第や」と
信心肝に銘じつつ

感涙、袖をぞ絞らるる

その時、老人、問うて曰く
「小国の沙門、それ、禅法に工夫あり 

座禅のこうあん(公案)、何と心得給うぞや」
道元答えて曰く
「入ては幽玄のそこ(底)にどうじ(同じ)
出でては三昧の門に遊ぶ」
老人、問うて
「じしん(自身)の仏はさていかに」
道正、答えて
「雲深き所
きんりょう(金龍)踊る」
老人問うて
「生死を離れば」
道正、答えて
「りんえ(輪廻)の如く」
老人、
「生死を離れば」
道元、
潭月(たんげつ)長閑(のどか)」

老人、
「さて、こうじょう(向上)の一路は如何に」

道元、切ってさんたん(三端)となす

柳は緑、花は紅(くれない)の色々」

老人、にこっと打ち笑い
「おお、良きかな、良きかな、道元
則ち、教外別伝(きょうげべつでん)の理体

一千七百の わそく(話則)を

よくよく悟り給うべし」と
ひとつの巻物あい添え
払子(ほっす)柱杖(しゅじょう)給わりけり
「これ、加賀の国、大りゅうじ(大乗寺のこと)の重物、碧巌(へきがん)しょ(書)これなり」
その時、老人
そばなる巌(いわお)に飛び上がり
たちまち、だるま大師と化身し

その時、老人
そばなる巌(いわお)に飛び上がり
たちまち、だるま大師と化身し

「いかに、道元、道正よ
急ぎ日本へ帰島して
さいか(才華)一家を建立して
末世衆生、引導せよ
これこれ、我が有様をよっく見て
下根(げこん)げぢ(蚰蜒)なる僧共によく学ばせ」
と、のたまい
座禅の姿を顕し
巌に隠れ失せ給う

有り難かりける次第なり
両僧、御跡、伏拝み
天童山の下向あり
急ぎ帰朝いたさんと
大師より給わりたる柱杖突け給い
もとの山路に差し掛かり
谷よ峰よと歩まるるが
もとの道にはあらずして
千里が野辺に出で給う

道元ご覧じて
「いかに道正
これより先は道見えず
また、方角も知れざれば
如何せん」
とのたまいて
両人共に呆れ果て
草むらに座を組みて
黙然(もくねん)としておわします

山道の御疲れ
とろりとろりと眠りつつ
前後も知らず見え給う

かかる所へ
いづくともなく
悪虎(あっこ)ひとつ跳び来たり
二人を目がけ、
牙を鳴らし
只、一口と、飛びかかる
危うかりける次第なり

かかるところに不思議やな
道元の突き給う
柱杖、たちまち大蛇となり
悪虎を取って服(ぶく)せんと
竜虎、二つの戦い
凄まじかりける次第なり
時に道正の下げ給う
小刺刀(こさすが)、おのれと抜け出して

たちまち大の剣となり
虚空に駆けり飛びめくり
山を崩して競り合いけり

この騒動に二人御目を覚まし
驚かせ給いつつ
御経を読誦なされ
観念しておわします
悪虎、なおなお怒りをなし
飛びかからんとせし所を
大蛇、悪虎がひら首に食らいつく
 剣は虚空に飛び来たり
直中(ただなか)を刺し通す
大蛇は首を喰い切りたり
不思議や、かの剣
草むらに立ちければ
大蛇は剣の引きまとい(纏い)
飲むよと見えしが
元の柱杖となりにけり
剣と見えしは、刺刀(さすが)となり
元の様にぞ収まりける

倶利伽羅不動の御本地

この時より始まりける

両僧、奇異の思いをなし
諸天の礼し(らいし)
天童山を伏し拝み
道元、かの柱杖を
御身を離さず持ち給う
虎食み(ばみ)の手杖とて
永平寺の重物なり

さてそれよりも
両僧は、霊物霊地
残らず御修業なされつつ
十三年と申すには
南京が浦に出で給う

折節、ばい船(売船)押し出す
便船乞うて打ち乗り
順風に帆を上げ
島々、名所、打ち眺め
心静かに帰朝あり
三日三夜と申すには
高麗、唐土の境(さかい)
もめい島(?)を行く所へ
海上、俄に景色変わり
浪は世界を洗いつつ
道元の御舟を覆さん(くつがえ)としたりける
いたわしや道正は
長の旅路の御疲れ
患わせ(わずら)給いける
道元、無念に思し召し
道正が御顔へ水なと注ぎ
舟の舳先(へさき)につつ立ち上がり

「いかに、八大龍王
情けに聞け
入唐(にっとう)の沙門、道元が
只今、祈祷いたすところに
何とて浪風荒ろうして
患らわする事謂われなし
早、疾く、浪風静めよ」と
高らかに(たつからかに)呼び給えば
不思議や浪風静まりて
龍女一人(いちにん)現れ出で
「我はこれ、しゃかつた龍王(シャカラ龍王)が娘

豊玉姫(とよたま)にて御座候

竜宮城と申すは
六道界(りくどうかい)のそのひとつ

三熱の苦しみあり

 仏、済世(せいせ)の御時
文殊菩薩、竜宮に御入りあり
法華経の利益(りやく)によって
八才の龍女
天王如来と喜悦す

今、道元のお通り
一重に仏のご来臨
御結縁(けちえん)に預かりたく
御舟止めて候
血脈(けちみゃく)を給われ」と

 涙を流し申しける
道元、不憫に思し召し
一つの巻物与え給う

「これ、才華一家の血脈の初めなり」
その時、龍女
瑠璃の壺より薬を出し
道正に与えければ
今を限りの道正も
たちまち、本復(ほんぶく)なり給う

道元、不思議の思いなし給えば
龍女答えて
「そも、この薬と申すは
東西神仙山(しんぜんさん)の瑠璃仙人

竜宮 、しゃぢくのつうど(車軸の通土?)

この薬方、秘して
互いに取り交わし
今、竜宮の重き宝に候えども
只今の御法施に

方を与え申さん」と一紙に書きたる
神仙解毒
万病円の秘密の方

衆生の病苦を救わせ給えと
一巻の書を献げ(ささげ)ける
去るによって、今の世まで
神仙解毒、永平寺より出る(いずる)事
この時よりも始まれり

道元道正
いよいよ奇異の思いをなし給い
龍女に向いて
慈眼視衆生福聚海無量
と唱え給えば、

龍女達、変生(へんじょう)男子(なんし)して
観音と顕れ給えば
不思議や浪間より
一葉(は)の蓮華、浮かみける
則ち、蓮華に移らせ給うとみえければ
白波、白雲となり
雲井遙かに上がらるる
道元道正、歓喜(かんぎ)の思いをなし
末世の衆生利益(りやく)のため
御爪にて
御姿を船板に彫り付け
今の世までも
船板爪付き一葉の観音
これなり
いよいよそれより春風吹き
七日(なぬか)と申すには
筑前の国(※肥後が正しい)
川尻村に着き給う

道元道正の御有様
有り難しともなかなか申すばかりはなかりけり

 

五段目


その後、道元道正は
安貞元年(1227)

丁の亥(ひのとのい)年中に

洛陽(らくよう)に入り給う
道元仰せける様は

「いかに道正
急ぎ、参内仕り
帰朝の由を奏聞せん
用意せよ」
とのたまいて
御装束を改めて
やがて、参内なされける
禁裏になれば
帰朝の由を奏聞あり
内よりの宣旨には
「いかに道元
この度入唐(にっとう)
衆生利益の勧めはいかに」
と宣旨あり
道元謹んで承り

「元より、たんちぐこん(短智愚魂?)の僧にて候えば
何と申し上ぐべき様も候わらず
去りながら
この、碧巌書と申すは
ぜんけ(禅家)そうとう(曹洞)建立の
仏眼(ぶつがん)の開き
長く衆生済度のためには
なんぼうめでたき宝経(ほうぎょう)にて御座候」と

だるまの三祖、六祖、大事の秘事
悟る所の妙伝を
謹んで差し上ぐる
御門を初め、奉り
公卿、大臣、各々開いて見てあれば
博学、叡智にして
言(げん)にも述べ難し

誠に道元禅師は
仏、二度の出世ぞと
各々感じ給いける
内よりの宣旨には
「さても、道元は
達磨二度の出世
日本の宝なり
この以後、曹洞(そうどう)一宗の
開山たるべし」と
紫の玉衣(ぎょくい)を下さるる

并(ならびに)に道正
一宗の官位の取り仕る事なれば
則ち、宇治の里に寺地を仰せ付けらる

両僧、謹んで
「有り難き、勅諚なり」
重ねて奏聞申さるるは

「この度、海上にて
不思議の薬方、伝来仕り候」と
龍女が与えし神仙解毒の薬方に
薬を添えて差し上ぐる
御門、御感浅からず
「かかる きめう(帰命)のめいほう(名方)を
万民に与えつつ
諸病を治すべし」と

則ち、道正に宣旨あり
道元道正、有り難しと
御前を罷り立ち
宇治の里へぞ急がるる

宇治にもなれば、御寺を建立なされつつ
天童八景を映し
光照寺(興聖寺:こうしょうじ)と額を打ち
行い済ましておわします
道元仰せける様は
「いかに道正
我、つらつら鑑みるに
今、濁世(じょくせ)の衆生らは

病苦に責められ
苦悩を悲しむばかりにて
仏道に帰依する者更になし
衆生化度(けど)のため
神仙解毒を慈悲に施し
病苦を救い
仏道を説き聞かせ
成仏の素懐(そかい)を遂げさすべし
その用意いたされよ。
道正承り
さあらば、用意いたさんと
洛陽に札を立て
近国へ触れをなし
貧なる者をば育み(はごくみ)
解毒を与え給えば
例え、いかなる悪病も
平癒(へいゆう)せずと言うことなし

ここに又、哀れをとどめしは
おばら(小原(おはら))の奥に

貧女親子おわします
いたわしや、かの貧女
幼児の昔、父に後れ
孤児(みなしご)となり給い
御母の養育にて、十八歳の春秋(はるあき)を
彼方此方と流浪有る

心の内こそいたわしき
世の中の習いにて
憂きに憂き事重なりて
母上三年以前より
御足を痛みつつ
ただ一足(ひとあし)も歩まれず
打ち伏し悩みおわします

誠に女生(にょしょう)のことなれば
営む業のあらざれば
貧女は里田へ下りて
落ち穂を拾い
育み(はごくみ)給いしは
こもう(虚妄)が孝と申せども
これには、いかでまさるべし
貧女は余りの悲しさに
母に打ち向い

「聞けば、みな(いま:今)
都には、尊っとき御僧の御説法をなされつつ
その上、名誉の御薬
慈悲に施し給うと聞く
わらわ、都へ参りつつ
御薬、申請参らせん
少しの内の事なれば
御寂しく(さみしく)とも待ち給え
やがて帰り申すべし」

母上は聞こし召し
「こは、殊勝なる物語
御身諸共、都へ行き
御説法をも聴聞し
菩提の種ともなしたやな
少しの道をも行く事も
叶わぬ事の悲しや」と
口説き嘆かせ給いけり

貧女、由を聞こし召し
「さほどに思し召すならば
何卒伴い申すべし」と
しばし案じておわせしが
かしこを見れば
ここ、非人の捨て置きし
土車を拾いつつ
母上を乗せ参らせて

縄を襟に掛け給い
小原の奥を引きいだす
かうかう(ごうごう)の土車
引く手に脆き(もろき)涙の露
彼方此方の山陰に
立ち安らいで

「母上様、お心は何とましますぞ
しばらく、休み給えや」と
車のそばに寄り添いて
涙ながらに諫めつつ
ようよう引くは、
今は早や東寺あたりに着き給う

いたわしや母上、疲れさせ給い
今は、こうよと見え給う
貧女驚き
「こは如何に母上様
御心は何と候ぞや」と
呼べど叫べど
御答えましまさず

貧女、あまりの悲しさに
そのまま車に取り付きて
消え入る様にぞ泣き給う
かかる所へ道正は
解毒を広めに通らるるが
この有様を見給いて

「これなる、女性(にょしょう)は、
何を嘆き給うぞや、不思議さよ」と
仰せける
貧女、嬉しさ限りなく

「のう、御僧様
これは、わらわが母上にて候が
只今、空しくなり給う」と
御衣に取り付きて、消ゆるばかりに
泣き給う

道正、不憫に思し召し
かの、解毒を取り出だし
御口にてかみ砕き
老女に与え給えば
たちまち、息をほっと付き

「あら苦しや」と
のたまう声に力付き
「のう母上、母上」と
ようよう心付き参らせける
母は御目を開きつつ

のう、貧女、これなる
御僧様は、いづくよりの御出でぞや」
貧女聞こし召し
「御身は、空しくなり給う
御僧様のお慈悲にて
蘇らせ給う」由
語りもあへず泣き給う
母上は聞こし召し
「こは、有り難き御事かな」と
手を合わせてぞ嘆かるる
道正聞こし召し

「宿業なれば是非もなし
ただ、念仏を申されよ
去りながら、これなる、若き上﨟の
母孝行の志
あまりに不憫に候えば
愚僧が庵へ伴い
我がしの方の御教化(きょうげ)にも
預からせ給うべし
いざ、させ給い」と仰せける

貧女聞こし召し
「有り難き仰せかな
去りながら
また、車にて引くならば
またもやお心悪しくならせ給うべし
今宵はこれにて休らいて
明日、伴い申すべし、御僧様」
と申さるる

道正、聞こし召し
「いやいや心安かるべし」と
御共の男(おのこ)に老女を肩に掛けさせて
貧女諸共、庵を指して帰らるる
庵になれば道元に
か様か様と語らるる
道元、聞こし召し
「親孝行の志
誠に殊勝に思うなり
教化(きょうげ)して得させん」と
一家、秘密の開経(かいきょう)を授け給う

貧女、あまりの有り難さに
肌の守りを取り出だし
「この守りは
自らが父上様、御最期の御時
この守りを、自ら形見に給わり候えども
只今の御説法に
御僧様へ奉る」と
肌の守りを、道元に参らせける

道元、守り受け取って
さっと開いて見給えば
守りにてはあらずして
代々伝わる御家(いえ)の系図なり
道元、はっと思し召し

「いかに、貧女
この守りは、御身が父の譲りかや」
貧女、聞こし召し
「わらわ、二歳の時なれば
何の様子も存ぜねども
これなる母の御物語候なり

道元、いよいよ不審のなし
「さては、それなるは
中納言道忠公の
御台、姫にてましますかや
これこそ、古(いにしえ)の神童丸」と
のたまえば、
貧女親子、驚きて

「のう、兄上様か
これこそは、松代(まつよ)の姫、母なるは」と
親子主従取り付いて
これはこれはと、悦び、涙、限りなし

道正、涙押しとどめ
「御嘆きはことわりなり
去りながら、巡り合わせ給うこそ
仏菩薩の御恵(めぐみ)
この上は御台所の
御髪(おぐし)下ろし給うべし
また、姫君は
御門へ奏聞申しつつ
いかなる人とも妻合わせし
御家立てさせ給うべし
これに過ぎたる悦びは候まじ
いかにいかに」と申さるる
母上、とこうの返事なく
さし俯いて(うつぶいて)おわせしが
また、悪心の炎(ほむら)立ち

「恨めしの道元や
これほど近くに有るなら
我が身の栄華に打ち忘れ
姫やわらわを打ち捨てて
かく浅ましき呈となす
我が子の金若あるならば
か程にはなるまじき
思えば思えば道元は
金若が、敵(かたき)なり」と
飛びかかり、
心元(こころもと)を喰い切って

昔の無念を晴らさんと
早や、悪心の炎立ち
不思議やな、晴れ渡る一天に
黒雲ひと叢(むら)舞い下がり
御台の上へ、落つると見えしが
姿はそのまま無かりけり
道元道正、騒がずして
天に向かって
「おのれが心、おのれを知る」と
喝、喝、と唱え
払子(ほっす)を投げつけ給えば
不思議や、雲間に文字顕れ
雲晴れて、母はろくじ(陸地)に落ち給う
有り難かりける仏力なり
その時、 道元
母上に打ち向い
「只今の有様は
御心より起こる所の悪心なり
速やかに懺悔(ざんげ)なさるべし
罪の滅する所なり」

母上聞こし召し
「恥ずかしき事ながら
昔の心忘れずして
悪心起こり候」と
残らず懺悔なされける

道元、嬉しく思し召し
「一念発起菩提心
成仏疑い有るべからず
姫、諸共、御髪下ろし給いつつ
それより御修業怠らず
国々を修業あれ」

その後、鎌倉松が岡に寺を建て

行い澄ましておわします
それより代々相続き
御所と申すこと
この時よりも始まりける
かの道元が法力
尊っとしともなかなか申すばかりはなかりけり

 

六段目

 

その後、道元禅師は
洛陽、洛外の老若男女の病苦を救い
仏法を説き聞かせ給えば
誠に禅師は釈尊(しゃくそん)の御出世ぞと
仰ぎ敬い(うやまい)奉る

道元、道正を召され
「いかに、かねて御身に言う如く
愚僧は、修業に出る故
御身はこれに住して
いよいよ済度いたされよ」
懇ろ(ねんごろに)にお暇乞いなされつつ
諸国修行に出で給う
有り難かりける次第なり
それよりも道元は
東(あずま)の方(かた)を志し
泊まり、泊まり、宿々にて
様々の利益(りやく)あり
ようよう、今は、相州鎌倉に着き給う
早や暮れ方の事なれば
宿、借らんと思し召し
彼方此方と頼まるれど
一人法師は禁制と
宿貸す者はなかりけり
道元思し召す様は
よしよしかかる邪険なる国こそ
修業のためなれば
このところにて、是非仏法を広めんと思し召し
由比ヶ浜に辻堂ありけるに
今宵は、ここにて明かさんと
その夜は、そこにおわします

夜半ばかりのことなるに
そばにありける井の内より
炎、はっと燃え出で
二十ばかりの女性の
足、空様(そらさま)になし
てにて(手にて)歩み来たりける
禅師ご覧じて

「これは、不思議の有様かな
いかなる者ぞ」と仰せける
女答えて
「わらわは、笹目ヶ谷(ささめがやつ)の者なるが

嫉妬の心深き故
夫の謀り(たばかり)にて
この井の内へ
真っ逆さまに落とされて
浮かむ世、更に候わず
二六時中(じゅう)に暇もなく
我が身より炎出で
五体六腑を焼き払い
死すると思えば又は生き
安き暇無き苦しみを
御助け給われ」と

涙にくれて申しける
道元不憫と思し召し
「さあらば助け申さん」と
開経を授け
提婆品にて弔(とぶら)わせ給えば
不思議や明星天子、天下り

かの井の内へ光を放ち給うと見えければ
亡者(もうじゃ)たちまち仏体(ぶったい)と顕れ
雲井遙かに上がりける
有り難かりける次第なり
今の世にいたるまで
鎌倉の星井戸と申すこと、この時より申すなり

道元、虚空を伏し拝み
いよいよ御経読誦あり
既にその夜も明けぬれば
鶴ヶ岡に出で給い
方便の刹土
 勧め給うぞ有り難けれ
このことなおも隠れ無く
鎌倉の副将軍時頼公聞こし召し

御前に、波多野出雲守(はたのいずものかみ)を召され
「聞くは、都より
尊っとき沙門来たりて
説法とやらんを広むる由
衆生に聞き及びたり
急ぎ召し寄せ
教下別伝の志を聞くべきなり
修行者(じゃ)召せ」
とぞ仰せける畏まって候とて
頓て道元を召し出し
武将ご覧じて
「いかに、修業者
教下別伝の道理は如何に」
と仰せける

道元承り
「その義は言語(ごんご)筆紙(ひっし)に述べ難し
眼をふさぎ、我と悟りを開くが故に
禅法とは申すなり
悟る時は仏体
迷うが故に六道界
よくよく、御思案候え」と
はばかり無くぞ言上す

時頼、尊っく思し召し
上座を立って
道元の御手を取り
上座を立て移し奉り
驚き入りたる御勧め
「今より御弟子となり申さん
開経お授け候え」と
謹んでぞ仰せける
道元辞するに及ばず
則ち、菩薩戒を授け給えば

則ち、御髪(おぐし)降ろさせ給い
さいみょうじ(最明寺)と戒名あり

殊勝なりける次第なり

 それよりも道元は、御いとま言上あり
最明寺、聞こし召し
「衆生利益の修業の御身なれば
お心に任せ給うべし
何国(いづくに)にても候えかし
お心止まり候所に
御寺建立申すべし」と
懇ろにお暇乞いなされつつ

 御簾(ぎょれん)に入らせ給いけり
これは、宝治元年八月(1247年)に
御いとま給わり
鎌倉をお出であり
北国を志し
越前指してぞ急がるる

日数重なり今は早や
越前の国、いのう峠(ゆのお:湯尾峠カ)に差し掛かり

暫く休らいおわします
懸かるところへ化したる(けしたる)物現れ出で
道元に打ち向い

「我々は、第六天の魔王の眷属
七千夜叉のその内
あにら(額爾羅)神、
まにら(?まこら:摩虎羅)神の大将なり

しかるに、この度の禅師
ほう王(疱瘡:ほうそう)な病み給うべき

 時節に当たり候ゆえ
只今、御身(ごしん)へ分け入り
苦しめ奉る」と
禅師に近づき奉る

「無位の真人、面門に現ず、智慧愚痴、般若に通ず、
霊光分明にして大千の輝やかす

鬼神、いずれの所に(か)手脚(しゅきゃく)を着けん」

呪文を唱え
御杖にて打ち給えば

鬼神たちまち悟りを得
頭(こうべ)を地に付け
「末代に至りて
このもん(文)あらん所には
影も指さじ」と
固く約束仕り

形も見えずなりにけり
その時道元の打たせ給う
杖の形に木を刻み
このもん(文)の書きて
疱瘡の呪い(まじない)
孫杓子(まごじゃくし)と名付け候事

かかる所に
波多野出雲守義重(よししげ)
道元、通りの由聞き及び
御迎えに出で給い

「国中において
御寺建立申すべし
御心留められよ」と
たって申され申されたりければ
道元、聞こし召し

「さあらば、衆生済度のため
寺地、見立て申さん」と
山深くに入り給い
根山(ねやま)はひきく(低きく)
東の峰に峰重なりて
雲上の巷(ちまた)
これこそ、屈強の所とて
義重、時の奉行として
寛元二年(1244)に打ち建て

同年七月十八日にできし
仏法社殿の儀につき
漢の永平の年号を取って
吉祥山(きちじょうざん)永平寺と改め
入佛の御供養
または、御父道忠、金若丸の御為とて
法華経の全部を初め

たいしゅ(だいしゅ:大衆)同音に誦(じゅ)し給う
あら、有り難や
この御経の功力によって
道忠、金若
成仏の姿を顕し給えば
諸々の菩薩天下り
仏体と顕れ
雲井遙かに上がらるる

今の世までも
さいか(才華)一宗の開山 
永平寺と道元禅師の御法力
有り難しともなかなか申すばかりはなかりけり

 

結城孫三郎直伝
元禄二年五月吉祥日

  曹洞宗の宗祖道元は正治2年(1200年)に生まれた。父は村上源氏の流れをくむ名門久我(こが)家の久我通親であるとするのが通説だが、これには異説もある。

幼時に父母を亡くした道元は仏教への志が深く、14歳で当時の仏教の最高学府である比叡山延暦寺に上り、仏門に入った。。

貞応2年(1223年)に渡宋する。

道元は天童山景徳寺の如浄禅師(1163-1228)に入門し、4年あまりの滞在を終えて帰国した。

日本へ戻った道元は初め建仁寺に住し、のちには深草(京都市伏見区)に興聖寺を建立して説法と著述に励んだが、旧仏教勢力の比叡山からの激しい迫害に遭う。

旧仏教側の迫害を避け、寛元元年(1243年)、越前国志比庄に向かう。

翌寛元2年(1244年)傘松峰大佛寺(さんしょうほうだいぶつじ)を建立する。これが永平寺の開創であり、寛元4年(1246年)に山号寺号を吉祥山永平寺と改めている。

寺号の由来は中国に初めて仏法が伝来した後漢明帝のときの元号「永平」からであり、意味は「永久の和平」である。

 

 後鳥羽天皇(ごとばてんのう、治承4年7月14日(1180年8月6日) - 延応元年2月22日(1239年3月28日))は、平安末期から鎌倉初期の第82代天皇

 

村上天皇(むらかみてんのう、延長4年6月2日(926年7月14日) - 康保4年5月25日(967年7月5日))、は、平安時代中期の第62代天皇

ご‐じょう【五乗】
《「乗」は悟りの岸に運ぶ乗り物で、教えの意》5種の教法。人乗・天乗・声聞(しょうもん)乗・縁覚(えんがく)乗・菩薩(ぼさつ)乗。

さんじゅうに‐そう〔サンジフニサウ〕【三十二相】 女性の容貌・姿形についての、一切の美しさ。三十二所。

三条宗近(さんじょうむねちか)
平安時代の刀工。山城国京の三条に住んでいたことから、「三条宗近」の呼称がある。
永延年間(10世紀)の人物。宗近は、その日本刀確立期である中世初期の代表的名工として知られている。一条天皇の宝刀「小狐丸」を鍛えたことが謡曲「小鍛冶」に取り上げられているが、作刀にこのころの年紀のあるものは皆無であり、その他の確証もなく、ほとんど伝説的に扱われている。現存する有銘の作刀は極めて少なく「宗近銘」と「三条銘」とがある。代表作は、「天下五剣」の一つに数えられる、徳川将軍家伝来の国宝「三日月宗近」。 
三條小鍛冶宗近本店という鍛冶屋がある
奈良県奈良市雑司町110(若草山)

 

天国(あまくに)は、奈良時代または平安時代に活動したとされる伝説上の刀工、またはその製作した刀のことを指す。

天国は日本刀剣の祖とされるが、その出身、経歴には謎が多く、大宝年間の大和の人とも、平安時代後期の人とも言われ、諸説あるものの、実在の人物であるかどうかは定かではない。天国の作と伝承される作として、平家一門の宝刀として著名な「小烏丸」(皇室御物)があるが、無銘であり、実際の作者は不明である。また、その製作は奈良時代まではさかのぼらず、日本刀が直刀から反りのある湾刀へと変化する平安時代中期頃の作と推定されている。なお、亀戸天神社の宝剣も天国の作とされ、こちらには「一度鞘から抜き放てば決まって豪雨を呼ぶ」という伝承が残されている。

れん‐し【廉士】
無欲で正直な人。廉潔な人。

ご‐しょう〔‐シヤウ〕【後生】
1 仏語。死後に生まれ変わること。また、死後の世。来世。あの世。→今生(こんじょう) →前生(ぜんしょう)


三趣=さんあくどう[―あくだう] 4 【三悪道】
死者が悪業(あくごう)のために行く、地獄道・餓鬼道・畜生道の三つの世界。三悪趣。。
 

し‐え【紫▽衣】紫色の袈裟(けさ)および法衣の総称。

九尾狐伝説
西域インドの耶竭陀(まがだ)国の王子、班足(はんぞく)太子の華陽夫人として現れる。
 班足太子も、華陽夫人に操られ、 千人もの人々を虐殺する悪逆無道な政治を行ったが、
 しかし、耆婆(きば)という人物が夫人を魔界の妖怪と見破り、金鳳山中で入手した薬王樹で作った杖で、夫人を打つと、
 たちまち九尾の狐の正体を現し、北の空へ飛び去って行った。

【保元の乱(ほうげんのらん)】1156年
源義朝は父の源為義(みなもとのためよし)の助命を願い出るが許されず、自分の手で父を切る。義朝は義経の父

道正(どうしょう、承安元年(1171年)- 宝治2年7月24日(1248年8月14日))は、鎌倉時代前期の曹洞宗の僧。俗名は藤原隆英。父は藤原顕盛、母は源仲家の娘。京都に生まれ、諸国を遍歴した後、1223年(貞応2年)明全(みょうぜん)・道元とともに中国の宋へ渡って天童如浄のもとで大悟した。1227年(貞応6年)の冬、日本への帰途道元が病を得ると、神人が現れて一丸薬を与えられ、それを飲んだ道元はたちまち回復した。道正が神人に教を乞うたところ、神仙解毒の法を授けられたという。道正は日本に帰ると世俗を離れ、洛西の木下(現在の京都市上京区)に草庵を建てて篭居し、道正庵と号した。以後、道正庵の庵主は代々その医業を伝えた

えん‐どん〔ヱン‐〕【円頓】
《「円満頓足」の略》天台宗の教義で、一切を欠くことなくたちどころに備えることができる意。実相をたちまち悟って成仏すること

 し‐かん〔‐クワン〕【止観】
1 天台宗で、禅定(ぜんじょう)により心の動揺を払って一つの対象に集中し、正しい智慧を起こして仏法を会得すること

ろく‐そ【六祖】
中国禅宗の第6番目の祖、慧能(えのう)のこと。六祖大師。

※慈円:道元の大叔父に当たる天台座主(九条家)

 

京都市左京区下鴨の東部を流れる川

 淀(よど)は、京都府京都市伏見区西南部に位置する地域

 

男山 (京都府) - 京都府八幡市にある鳩ヶ峰の別名。標高143m。

石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は京都府八幡市の男山山頂に鎮座する神社。京都の鬼門(北東)にある延暦寺と対峙して京都の裏鬼門(南西)を守護する神社である。

※ 神崎 (兵庫県尼ヶ崎)

小野 篁(おの の たかむら、延暦21年(802年) - 仁寿2年12月22日(853年2月3日))は、平安時代前期の公卿・文人。 参議・小野岑守の長男。官位は従三位・参議。異名は野相公、野宰相、その反骨精神から野狂とも称された。小倉百人一首では参議篁(さんぎたかむら)。『西道謡』という遣唐使の事業を(ひいては朝廷を)風刺する漢詩を作るが、その内容は本来忌むべき表現を興に任せて多用したものであった。そのため、この漢詩を読んだ嵯峨上皇は激怒して、篁の罪状を審議させ、同年12月に官位剥奪の上で隠岐への流罪に処した。なお、配流の道中に篁が制作した『謫行吟』七言十韻は、文章が美しく、趣きが優美深遠で、漢詩に通じた者で吟誦しない者はいなかったという。

百人一首

わたの原 八十島(やそしま)かけて 漕(こ)ぎ出でぬと
   人には告げよ 海人(あま)の釣り舟

※白山権現(はくさんごんげん)は白山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神であり、十一面観音菩薩を本地仏とする。白山大権現、白山妙理権現とも呼ばれた。(岐阜・石川・富山・福井県境)

※道元が京都を追われ、越前に入った時に最初に入った吉峰寺(白山信仰に関連する天台寺院)を踏まえている。

天童寺(てんどうじ)は、「天童禅寺」とも呼ばれ、「東南佛國」とも称される、著名な禅宗の寺院である。禅宗五山の第二に列されている。浙江省寧波市にあり、太白山の麓に位置し、山に依り、水に臨む、勝景の地にある。天童寺と日本の仏教の関係は深く、日本の曹洞宗は、天童寺を祖庭としている。

天台山(てんだいさん)は、中国浙江省東部の天台県の北方2kmにある霊山である。最高峰は華頂峰で標高1,138m。

黄檗山萬福寺は1661年に中国僧 隠元隆琦(いんげんりゅうき)禅師 によって開創。

西禅寺:中国の福建省の省都、福州(フーチョウ)市の西郊外、怡山(いさん)の永欽里にあり、887年に建てられた、福州五大禅寺の一つ。当初は「長慶寺」と呼ばれた。

か‐か〔クワ‐〕【華夏】
《「華」ははなやか、「夏」はさかんの意。中国人が自国を誇っていった語から》文化の開けた地。都。

「八相」
(一)「入胎」お母さんの胎内にやどること
(二)「誕生」生まれること。
(三)「処宮」世間に出ること。つまり社会生活をすること。
(四)「出家」処宮(社会生活)の中で満足できない問題を、本当に自分の問題として
解いてゆこうと努力すること。
(五)「降魔」魔というのは、智慧のいのちを殺す者、その魔と闘って勝利すること。
(六)「成正寛」真実智慧の獲得、覚(さと)りを開くこと。
(七)「転法輪」自分の開いた覚りを言葉にして伝えること。
(八)「入涅槃」涅槃に入ること。

はっくどく‐すい【八功徳水】
極楽浄土などにあって、八つの功徳を備えている水。倶舎論(くしゃろん)では、甘・冷・軟・軽・清浄・不臭・飲時不損喉・飲已不傷腸の八徳。はちくどくすい。八徳(はっとく)。
 

たん‐げつ【×潭月】
深く水をたたえた淵に映る月。

【三端】 韓詩外伝
君子の避けるべき三つのもの。文士の筆の先、武士の刀の先、弁士の舌の先。
 

 

「柳は緑、花は紅(くれない)の色々」

(※柳緑花紅:蘇東坡(そとうば)
自然に存在するあらゆるものは、それぞれ真実・真如の姿としてある。

※話則:禅僧の問答の記録

 

※碧巌録(へきがんろく)は、中国の仏教書概要 。宋時代(1125年)に圜悟克勤によって編された。雪竇重顕選の公案百則に、垂示(序論的批評)、著語(部分的短評)、評唱(全体的評釈)を加えたもの。
※「一夜碧巌集」
一般には「碧巌録」の名で知られる。禅宗とくに臨済宗で重んじられる典籍である。
宋の雪竇重顕(980~1052)が禅修行の公案から100則を選び、自ら頌を付したものに、臨済宗の圜悟克勤(1063~1135)が著語と称する評釈を加えたもので、禅修行のすぐれた指南書として知られている。
本書は、道元(1200~1253)が、南宋の宝慶3年(1227)冬に帰朝する直前、師の天童如浄から指示され、急遽一夜で書写したという伝承があり、「一夜碧厳集」と称されるようになった。とくに下巻81則以下は、夜明け直前に白山権現が現われて助筆し、完了したと伝えられる。
はじめ越前永平寺に伝えられたが、永仁5年(1297)の同寺の大火後、大乗寺に寄せられ、応長元年(1311)頃、瑩山紹瑾から一時大乗寺の管理を委ねられた臨済宗の恭応運良に託され、康永4年(1345)に再び大乗寺に帰入されたもののようである。

 

げ‐こん【下根】
《「根」は本来の性質の意》仏語。教えを受ける性質・能力が生まれつき劣っていること。仏道を修行する力の乏しいこと。また、その者。下機(げき)。下機根


げじ‐げじ【蚰=蜒】
1 ゲジの俗称。《季 夏》「―や風雨の夜の白襖/草城」
2 人から忌み嫌われる者のたとえ。
 

 

倶利伽羅剣(くりからけん)は、不動明王が右手に持つ、竜が巻きつき炎に包まれた剣。貪瞋痴の三毒を破る智恵の利剣である。この剣が単独で磐石に突き立った姿は不動明王の化身とされ、「倶利伽羅明王」「倶利伽羅不動」「倶利伽羅竜王」などと呼ばれて礼拝の対象となる。

虎刎の柱杖(とらはねのしゅじょう)
 高祖大師が入宗の修行中、江西の浙翁如炎(せつおうにょえん)和尚に相見のため径山(きんざん)に登らんとした時、路ばたで老虎と逢いしに、持っていた柱杖でもってハネノケたる故に虎刎の柱杖といいます。
 また、この柱杖は龍と化して、その頂上には高祖大師が安坐せられていたととも伝えられています。 虎刎の柱杖は建撕記(けんぜいき)には宝慶寺に在りとされていますが、永平寺宝庫にも保存されています。

娑伽羅(サーガラ、しゃから大海。龍宮の王。大海竜王。「沙掲羅」、「娑羯羅」などとも漢語に音訳された。法華経・提婆達多品に登場する八歳の龍女はこの竜王の第三王女で「善女(如)龍王」と呼ばれた。

※海幸彦= 豊玉彦

六道(りくどう、ろくどう)

仏教において迷いあるものが輪廻するという、6種類の迷いある世界のこと。
天道(てんどう、天上道、天界道とも)
人間道(にんげんどう)
修羅道(しゅらどう)
畜生道(ちくしょうどう)
餓鬼道(がきどう)
地獄道(じごくどう

さんねつ 【三熱】
〔仏〕 畜生道で、竜・蛇が受ける三つの苦しみ。熱風に骨肉を焼かれること、悪風に居所や衣服を奪われること、金翅鳥(こんじちよう)に食われること。

けち‐みゃく【▽血脈】
 師から弟子へと代々、仏法を正しく伝えること。また、その仏法相承(そうじょう)の系譜。法統。法脈。けつみゃく

※瑠璃仙人=薬師如来=医王
薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい) 「薬師、すなわち瑠璃光浄土の主」の意

 

※五神仙山:蓬莱(ほうらい)、方壺(ほうこ)、瀛州(えいしゅう)、岱輿(たいよ)、員僑(いんきょう)

まんびょう‐えん〔マンビヤウヱン〕【万病円】
江戸時代にあった、万病に効果があるという丸薬。
 初代木下道正大庵主は道元禅師入宋の折、禅師に随行し禅師が病に罹(かか)った折「神仙解毒万病内(しんせんげどくまんびょうえ)」という薬を与えて救われたという

法華経・観音普門品の一節:慈眼視衆生福聚海無量(じげんし、しゅじょう、ふくじゅ、かいむりょう)


慈眼視衆生 慈眼をもって衆生を視(み)たもう
福聚海無量 福聚の海は無量なり

観音菩薩は一切の功徳を持っておられ、慈悲の眼をもって衆生をご覧になっておられるのだ。そして一切の衆生を救済済度なされようとしておられるのである。観音菩薩とは大海のように無量無限の福徳を持って衆生のために垂れ給うご存在であるからである。

※観音寺南望山慈眼院(熊本県熊本市南区富合町杉島1469)は、百済国日羅太師の開基で、南都西大寺の枝院であり、本尊如意輪観世音菩薩・脇士毘沙門天・持国天が安置されている。
本尊は聖徳太子の作・脇士は運慶・湛慶父子の作とも言い伝えられている。
越前の国永平寺の開祖道元禅師、宋より帰国の折、南海にて船板に彫り付けられた観世音像を寺の北側の浜で開眼せられ、観音寺に奉納された。この浜を開眼の浜と称し、「船板観音」が保蔵されている。

 

 

川尻村:河尻津御船手

熊本県熊本市南区富合町御船手

菩提達摩は禅宗の祖と呼ばれ、慧可は二祖、僧璨(そうさん)は三祖、道信(どうしん, 580-651)は四祖、弘忍(ぐにん, 601-675)は五祖と呼ばれる。禅宗の伝燈がこのように承伝されて五番目の六祖の慧能(えのう,638-713)に至ったのが、現代の禅宗の淵源である

※道元は宋から安貞元年(1227年)に帰国、しばらく建仁寺に身を寄せた後、同寺を去って深草(現在の京都市伏見区深草)の安養院に閑居した。寛喜元年(1229年)頃のこととされる。安養院はかつて深草にあった藤原氏ゆかりの大寺院極楽寺の跡で、現在の京都市伏見区深草宝塔寺山町付近にあったと推定されている。天福元年(1233年)、道元は深草に興聖寺を開創する。

 

※現在の宇治よりも広範囲を指し、深草(京都市伏見区)の興聖寺付近も宇治を呼んだ


※興聖寺(こうしょうじ)は京都府宇治市にある曹洞宗の寺院。日本曹洞宗最初の寺院で僧堂がある。山号は仏徳山(ぶっとくさん)。本尊は釈迦三尊。参道は「琴坂」と称し、宇治十二景の1つに数えられている
京都府宇治市宇治山田27

興聖寺は、比叡山延暦寺の弾圧を受け、寛元元年(1243年)、道元が越前に下向して以降荒廃し、住持4代で廃絶した。その後慶安2年(1649年)、淀城主の永井尚政が万安英種を招聘して5世住持とし、朝日茶園のあった現在地に復興したのが今ある興聖寺である



き‐みょう〔‐ミヤウ〕【帰命】
仏の救いを信じ、身命を投げ出して従うこと。帰依。
めい‐ほう〔‐ハウ〕【名方】
薬の調合がすぐれていること。有名な処方。また、その薬

大原(おおはら/おはら)は、京都市左京区北東部の比叡山西麓高野川上流部に位置する小規模盆地の名称。古くは「おはら」と読まれ、小原とも表記された。かつては山城国愛宕郡に属し、南隣の八瀬とセットで「八瀬大原」とも称された。

かい‐きょう〔‐キヤウ〕【開経】
 本経(ほんぎょう)の前に読む経。法華三部経で、本経の法華経が説かれる前に、序説としてあらかじめ説かれる無量義経をさす

東慶寺(とうけいじ)は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派の寺院である。山号は松岡山、寺号は詳しくは東慶総持禅寺と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は北条貞時、開山(初代住職)は覚山尼(かくさんに)である。
東慶寺は、近世を通じて群馬県の満徳寺と共に「縁切寺(駆け込み寺)」として知られていた。この制度は、女性からの離婚請求権が認められるようになる明治5年(1872年)まで続いた。

※室町時代後期には住持は御所様と呼ばれ、江戸時代には寺を松岡御所とも称した。

長谷笹目 ヶ谷(はせささめがやつ)鎌倉文学館付近(神奈川県鎌倉市長谷)

明星天子は、太白星すなわち金星とされ、虚空蔵菩薩の応現であり虚空蔵求聞持法を修すとき拝される尊である。求聞持法は、古来山林の修行者たちにより修された法で、弘法大師や元三大師などの高徳も行を修められた。弘法大師の法成就の霊証は、明星とんで口に入ると伝えられている(修験道系)

 

星月の井碑文(鎌倉市坂ノ下18-27付近で,虚空蔵堂へ登る階段口の前の東に建つ)
星月夜の井は一に星の井とも云う 鎌倉十井の一なり 坂の下に属す 往時此の附近の地老樹蓊鬱(おううつ:鬱蒼うっそう)として昼尚暗し 故に称して星月谷と曰ふ 後転じて星月夜となる 井名蓋し(けだし:多分)此に基く 里老言う 古昔此井中昼も星の影見ゆ 故に此の名あり 近傍の卑女(召使)誤つて菜刀を落せしより以来 星影復た見えざるに至ると 此説最も里人の為に信ぜらるるが如し 慶長五年(1600)六月 徳川家康京師(けいし:都)よりの帰途 鎌倉に過り特に此井を見たることあり 以て其名世に著(あら)はるるを知るべし 水質清冽(せいれつ:清冷) 最も口に可なり

せつ‐ど【刹土】
《(梵)Ketraの音写「刹」に、その漢訳「土」を加えた語》仏語。国土。国。

北条 時頼(ほうじょう ときより)は、鎌倉時代中期の鎌倉幕府第5代執権(在職:1246年 - 1256年)である。北条時氏の次男で、4代執権北条経時の弟。8代執権北条時宗の父

越前波多野氏
 承久の乱によって、関東御家人の多くが乱の恩賞地を得て西遷していった。波多野氏の一族も大槻氏が和泉国、菖蒲氏が石見国、松田氏が出雲国へ。そして波多野義重は越前国比志庄に移ったようだ。この義重の流れは、かれが出雲守であったことから「波多野出雲」と称している。
 この波多野出雲氏が中世を通して、波多野一族でも傑出した活動を示している。その舞台は京都が中心であった。特記されることとしては、義重が曹洞宗の道元和尚を所領の比志庄に迎え、永平寺を建立し、以後代々曹洞宗の庇護者になるなど宗教史のうえで大きな功績を残した。

ぼさつ‐かい【×菩×薩戒】
仏語。大乗の菩薩が受持する戒。悪をとどめ、善を修め、人々のために尽くすという三つの面をもつ。梵網(ぼんもう)経に説く十重禁戒・十八軽戒(きょうかい)など。大乗戒。

北条時頼の戒名:最明寺道崇
墓所:伊豆の国市長岡の如意山最明寺

ゆのお‐とうげ[ゆのをたうげ]【湯尾峠】-
福井県南条郡今庄町湯尾にある北陸街道の小さな峠。杓子(しゃくし)をのれんにしるし、孫杓子(まごじゃくし)という疱瘡(ほうそう)よけの守り札を出す茶屋があった。

十二神将(じゅうにしんしょう)
...薬師如来に従いしたがい,世界を守護する神々。
....1.宮毘羅(くびら)
....2.伐折羅(ばざら)
....3.迷企羅(めきら)
....4.安底羅(あんてら)
....5.額爾羅(あにら)
....6.珊底羅(さんてら)
....7.因達羅(いんだら)
....8.波夷羅(はいら)
....9.摩虎羅(まこら)
...10.真達羅(しんだら)
...11.招杜羅(しようとら)
...12.毘渇羅(びから)

(大般若経)※「優れた修行者が門前に現れ、光明を発しているから、鬼神は手を出せん」というような意味

越前国湯尾峠疱瘡神孫嫡子
   湯尾峠孫杓子. 前,後編 / 十返舎一九 著 ; 哥川国貞 画
「もて遊ぶ犬や達磨に荷も軽く湯の尾峠を楽に越えけり」といった和歌が赤絵に書かれることもあった。
赤は疱瘡神の嫌う色

大衆 だいしゅ
禅堂にとどまって修行している僧たちのこと