説経正本集 第2 (27)


ゆりわか大じん 


日暮小太夫
寛文二年壬寅二月吉日(1662年)
八文字屋八左衛門

 

第一

 

それ、思んみるに
謀計(ぼうけい)完全のり(履)みたりといえども

終には(ついには)神明これを罰っす。
正直は一旦の依怙(えこ)あらずと言えども

必ず日月の哀れみを蒙る

ここに本朝五十二代嵯峨の天皇御宇に当たって

四條の左大臣公満(きんみつ)卿の御子
百合若大臣公行(きんゆき)とて
公卿一人おわします。
然るに大臣、和漢の道は言うに及ばず
文武二道を兼ね給えば
天下に於いて、肩を並ぶる人も無し

そもこの大臣は
大和の国、長谷の観音の申し子なり

夏の半ばの子なればとて
百合若殿とぞ申しける

まず、七歳にては、ういこうぶり(初冠)召し  

程なく十七歳にては
正一位右大臣にふ(補)せられ
御童(わらわ)名によそえて(比え)

百合若大臣と号し奉る
御台所は三条壬生(みぶ)の大納言
章時(あきとき)卿の姫君なり
誠に夫婦の御仲、世に浅からずと聞こえける

ある時、帝より九州の国司に仰せ付けられ
豊後(大分県)の国に御所を建て
かくてここにぞ住み給う
民を哀れみ、慈悲をなし
仁義正しくましませば

この君万歳(ばんぜい)と祈りつつ
門前に、駒の立て所(たてど)もなく
明かし暮らしておわします

さても、む(蒙)国のむくり(蒙古)ども

我が朝の仏法を妨げ
魔王の国となすべしと
蜂起(ほうき)する由、聞こゆれば
筑紫よりして、飛脚到来、暇も無く
帝へ奏聞申しける

公卿大臣、集まり給い
されば詮議、まちまちたり
中にも源(みなもと)の享(とおる)の大臣
進み出で申されけるは
「それ、我が朝は、
国常立尊(くにのとこたちのみこと)よりこの方

神国として、仏法王法一体無二なり
いわゆる、車の両輪(りょうわ)の如し

されば、いざなぎ、いざなみの尊(みこと)

勢州(せいしゅう:伊勢)渡会(わたらい)の郡(こおり)
山田(伊勢市宇治山田)に跡を垂れ

衆生の済度し給う

天照(てんしょう)皇大神宮(こうだいじんぐう)これなり
慈悲の御眦(まなじり)は、
三千世界を照らし給うとも
蒙古(むくり)が有様を
神託(しんたく)に御任せ候わんや

しかのみならず、
過ぎにし、大同年中(ねんじゅう)には 

坂上 田村丸、勢州鈴鹿の悪魔を従えんとて

清水の観世音を信じ奉る
だいごう(?大豪:大業?)をなせしなり

これ、しかしながら
我が朝(ちょう)、神ゐ(かむい)、
くわうたい(後代)なるが故なり
しかるに大神宮へ勅使を立てられ
神託に御任せ候わんや」
と、昔を引いてぞ申さるる

げに、この義、然るべしとて
則ち大神宮へ勅使を立たせ給いける
勅使は、伊勢に着かせ給い
神主に対面あり
宣旨の由を述べ給い
やがて神楽を参らせらるる

あら有り難たや
しんめい(神明) は、
七つにならせ給う乙女が袖に移らせ給い
鈴振り上げて神託ある
「蒙古(むくり)が向かう日よりして
ひじょう(非常)の神達
高天原(たかまがはら)にしゅかい(集会)して

軍評定め取り取りなり
しかれども、蒙古(むくり)が大将
りょうぞう(両蔵)が放つ毒の矢が
住吉の召されたる
神馬の足に立つにより
この傷、癒さんそのために
神の軍(いくさ)を延べらるる

これによって九夷(きゅうい)ども

力を得たりと攻め入るなり
されども、彼が振るまいは、
風の吹かぬ間の花なるべし
急ぎ、凡夫の戦(いくさ)を早め
しょじん(諸神)もおうご(応護) 給うべし

今度の大将には、
左大臣が嫡子
百合若大臣を向くべし
大臣下向するならば
鉄(くろがね)の弓矢を帯(たい)せよ
遅くてこの事、悪しかりなん
急げ急げ」
と神託有りて
神は上がらせ給いける

勅使は、奇異の思いをなし
いよいよ礼拝奉り
都を指してぞ登らるる
都になれば、この由つぶさに奏聞あり
重ねて、公卿詮議ある
内よりの宣旨には
「さらば、神託に任せよ」
との宣旨なり

畏まって候と
やがて勅使を立てらるる
勅使は豊後に着かせ給い
大臣殿に対面し宣旨の由を延べ給い
勅使は都に帰らるる

大臣勅命蒙り
先ず、家の臣下に
べつふきょうたい(別府兄弟)召され
「如何に汝ら
斯様々々(かよう、かよう)の勅諚なり
まず、勢(ぜい)の着倒(ちゃくとう)付け
船どもを用意して
けつこう(結構)せよ

さて、神託に任せ
鉄(くろがね)の弓矢を持つべき間
鍛冶の上手を尋ねよ」

承るとて、求めしに
ここに、伯耆の国より

名鍛冶来たって
一所を清め仕立てける
さて、弓の長さは八尺五寸(約2.8m)
まわり(周り:羽周り)は六寸二分(約20cm)にして
矢づか(束)は三尺六寸(約1.2m)

矢数は三百六十三
根は八つ目の(かぶら)を入れ 
目」とよぶ窓をあける。

弓も矢も鉄(くろがね)なれば
引くに返すまじとて
人魚の油を差しければ
思いのままにぞ、しゅったい(出来)す

大臣、斜めに思し召し
数の褒美を下さるれば
喜び、御前を罷り立ち

さて大臣殿
御台所に近づきて
「我はこの度、帝よりの宣旨に任せ
蒙国(むこく)へ向かい候なり
互いに命目出度くば
やがて御目にかかるべし
もしまた、討たれてあるならば
後世をば頼み奉る
名残惜しや」
とのたまえば

御台、この由きこしめし
「これは恨めしき、仰せかな
蒙国とやらんへ、遙々と
攻め下らせ給いなば
後の残りて、自らは
何と成るべき事どもぞや
只、一緒の御船に召し連れさせ給えや
のう恨めしや」
と、悶え焦がれて泣き給う

労しや大臣殿
連れて心は乱るれども
涙を抑え
「尤も、御嘆きは至極せり
去りながら、勅命なれば力無し
また、伴い申さんも
今、とのふね(殿舟?)、艫(とも)には 

諸神(しょじん)を斎い(いわい)奉れば
なかなか思いもよらぬこと
ただ、この御所におわしまし
心強くも待ち給え」
と、いろいろ諫めてのたまえば

御台も道理に聞こし召し
「よし、この上は、自らが
何と(なにと)慕うと
叶うまじ
目出度う、やがて上らせ給え
暇申して大臣様」

「暇申して北の方
さらばさらば」との
涙の別れぞ哀れなり
女房達、ようよう諫め
奥に入れ奉る

かくて大臣殿
心弱くて叶うまじと
勢の着倒付け給うに
三万余騎と聞こゆ
さて、大船が百余艘(そう)
小船は数を知らず
総じて船の数は八万余艘
中にも大将の御座船を
錦を持って飾り立て
艫舳(ともへ)に五色の幣(へい)を切りて

日本六十四州の大小じんぎ(神祇)
いがき(斎垣)、鳥居、榊葉(さかきば)に斎い込め
雲に光りを交えたり
 烽火(ほうか)太鼓を奏しつつ 
弘仁(こうにん)七年(816年)卯月半ばに

艫綱(ともづな)解き
順風に帆を上げ
勇みをなして押し出す
大臣殿の御威勢
由々しかりともなかなか、申すばかりはなかりけれ

 

 

第二
 
蒙古の両蔵、
百合若大臣に討たるる事

 

 

去るほどに、蒙古(むくり)が大将
両蔵は、
二相を悟る神通の者なれば
討っ手の向かうを悟りつつ
「近寄せては叶うまじ
潮境まで討って出で
即時に勝負を決せん」と

両蔵、火水が、大将にて
四万艘(ぞう)の船艫(とも)に
多くの眷属込み乗せ
日本の地へと押し寄する
唐と日本の潮境
ちくら(筑羅)が沖に陣を取る

同じく大臣殿の御船も
筑羅が沖に着き給う
両陣互いに支えつつ
太鼓、鼓を打ち鳴らし
鬨(とき)の声をぞ上げにける
六種振動、夥し(おびただし)

鬨の声も静まれば
蒙古(むくり)が大将両蔵は
一陣に進み出で
天地も響かす大音にて
「我らが、戦の吉例には
霧を降らする法のある
霧降らせよ」と下知をなす
きりん(麒麟)国の大将
船端に突っ立ち上がり
青息、ほうどとついたりける

如何なる術をか構えけん
霧となりてぞ降りにける
一日二日に降り止まず
百日百夜降るほどに
無惨や強者(つわもの)ども
「このまま果てん口惜しや」
と、呆れ果てたるばかりなり
大臣無念に思し召し
潮を結び手水とし

「南無日本六十四州の大小の神祇(じんぎ)
この霧晴らしてたび給え」と
諸神に祈誓掛け給う
誠に仏神三宝も
これを不憫に思し召し
俄に神風吹き来たり
霧も程なく降りやむも
大臣なのめに思し召し
「態と(わざと)多勢は無益(むやく)」
とてわずか十八人にて
む国(蒙国)の船へぞ向かわれける
 両蔵、火水、これを見て
蟷螂(とうろう)が斧と勇みをなし

鉾(ほこ)を飛ばせ、釼(つるぎ)を投げ
火花を散らして攻めにける
大臣これにも、ことともせず
蒙国の船へぞ向かわれける
有り難や船の舳先(へさき)に付かせける
鉄(くろがね)盾(たて)の面(おもて)には、
般若心経、観音経、
金泥(こんでい)にて書かれたる
尊勝陀羅尼の中の文字が

三毒不思議の矢先となりて
蒙古(むくり)が眼(まなこ)を射潰しける
不動の真言に カンマン二つの文字

釼(つるぎ)となりて飛びかかる
観音経の銘文(めいもん)に
於怖畏急難(おういきゅうなん)という文字が

黄金(こがね)の盾となりて
蒙古(むくり)が矢先を防げば
味方一騎も討たれず

さてこそ、大臣、力を得、
鉄(てつ)の弓矢を
打ち捌け打ち捌け(うちはけ)
散々にはなされたり
十八人の強者ども
船梁に突っ立ち上がり
矢種も惜しまず、射掛けたり
蒙古(むくり)はこれにもことともせず
鉾(ほこ)、鉄杖(てつじょう)をひっさげひっさげ

両陣互いに、入り乱れて
火花を散らして戦いける
かかりける所に
誰(たれ)射るとも見えねども
白羽の矢、虚空より降り来たり
 両蔵、火水が眉間に立つと思えば
そのまま狂い死にに死んだりける

別府兄弟、これを見て
釼を抜いて額に当て
蒙古(むくり)が船に飛び乗り飛び乗り
手を砕きてぞ戦いける
多くの蒙古(むくり)討たるれば
残る眷属これを見て
叶わじとや思いけん

我先にと落ちけるが
「今より後は日本の地へ来たるまじ」と
言う声して、行き方知らずなりにける
大臣いよいよ勇みをなし
唐と日本の戦いに
勝ちぬや勝ちぬと勇みをなし
暫く陣をぞ取り給う
大臣殿の手柄の程
由々しかりとも中々申すばかりはなかりけれ

 

第三 

 

別府兄弟、大臣を嶋捨て、帰国の事

 

去る間、大臣殿
そのまま御帰朝あるならば
目出度かるべき事なるに
この頃の長の陣に精気や尽かれ給いけん
別府兄弟を召され、
「この辺りに、もし、嶋や有る
上がりてひとまず休むべし、尋ねよ」

と、仰せける

兄弟承り、艀(はしぶね)降ろし乗せ参らせ
ここかしこと尋ねしに
波間にひとつの嶋ぞある
玄海が嶋これなり

急ぎ上がらせ給いつつ
敷き皮を延べさせ
岩角を枕として睡眠(すいめん)なされ給いける
大力の癖やらん
寝入りて左右(そう)無く起き給わず
宵三日まで伏し給う

さても、別府兄弟は
徒然さの余りにや
まず、傍らに立ち休らい
物語をぞ始めける
弟の貞貫(さだつら)申す様

「さてもこの君、御帰朝あらば
日本国を妨げなく賜らせ給うべし
人の果報を願わば
ただ、この君の様に」と言う
兄の貞澄(さだずみ)これを聞き

「尤も、君は左様に富み給うとも
我々はこの上に
さのみ変わる事も無く
朽ち果てんこそ、無念なれ
御辺は何と思うぞ
いざ、この君を討ち申し
主(ぬし)無くして
御跡を知行せん」
とぞ申しける

貞貫聞いて
「音高し静まり給え
我ら兄弟心を合わせ
密かに失い申さんに
誰かは、さ見し申すべし
去りながら、我らの手に掛け失いなば
天命も憚り難し
ただ、この嶋に捨て置き給え
人倫遠き嶋なれば

よも十日とは延び給わじ
ただ、ここに捨て参らせ、帰朝せん」
とぞ申しける

貞澄聞いて
「面白くも工(たく)まれたり
さあらば、こなたへ来たれ」とて
太刀、刀を奪い取り
また、端船に打ち乗り
此方の陣に漕ぎ戻し

「さても君は
蒙古(むくり)が大将、
 両蔵と組んで海に入り給う」と
披露すれば、諸軍勢皆、力を落とし
兄弟がげし(下知)に付き従い
一度に船をぞ出だしける

この船音に大臣は、
夢打ち醒まさせ給いつつ
「やあ、誰かある」と召さるれど
答うる者はなかりけり

かっぱと起きて見給えば
早、御座船にも帆を上げ
遙かに遠く押し出す
「さては別府兄弟めが
心変わりと覚えたり
例え彼ら兄弟は心変わりするとても
などいげ(以下)の者どもが
我をば連れて行かざらん
やあ、その船戻せ」

と、声をばかりに呼ばわり給えど
船音高くて聞こえなば
詮方なさに大臣殿
海中に飛び入り
息をばかりに泳ぎ給う
船は浮き木の物なれば
風に任せ速かりけり

力及ばず大臣殿
元の嶋に上がらせ給い
ただ呆れて果ててぞおわします
「ああ、口惜しや
去るにても、早離、速離(そくり、とうり)が、古(いにしえ)
海岸に放されしも、かくやと思いしれたり

 

去れども、それは二人あり
慰む事も有りぬべし
所は僅かの小島にて
草木とても稀(まれ)にして
蒼天広々遠ければ

月の出ずべき山も無し
明日の日は海より出で
夕日も海に入るなれば
露の身は、尚頼みなや
たまたま言問う物とては
沖に流るる群鴎(むらかもめ)
渚の千鳥立つ時は
猶又友も恋しくて
いとど明け行く夜も長し
暮れゆく日影も遅ければ

労しや大臣殿
なのり(※そ:原文になし)を摘みては命を継ぎ 

物憂き日数を送らるる御有様こそ労しき

これはさて置き
別府兄弟、帰朝し
まず、豊後の御所に参り
乳母(めのと)を近付け申す様
「君は蒙古(むくり)が大将両蔵と組んで
海に入らせ給えば力なく
我々御形見を持ち参りたり
それそれ申し入れ給え」
と、嘆く体にて渡しける

乳母、はっと驚き
急ぎ(?欠文カ:御台に申し上ぐれば)
御台この由聞こし召し
「これは夢が現か」と
声を上げてぞ泣き給う

つくづく物を案ずるに
『心得ぬことどもかな
敵(かたき)と組ませ給わんに
何時の間にか
この形見、残させ給わん不思議さよ
前後ふかき(※不覚の)ことどもかな
疑わしくは思えども
まさしく討たれ給うと言えば
さはあらじとも言い難し』

形見に不審をなし
見れば又、誠とも思われず
所詮、彼らが兄弟を取って押さえ
拷問して責め問わんとは思えども
さすが、女性(にょしょう)の儚さは
思うに甲斐こそなかりけり
よし誠とぞ聞きなして
御心も乱れつつ
狂乱がましく見えければ
女房達、色々慰め奥に入り奉る

別府兄弟、御前を立ち
「最早、武略は叶いたり

いざや都へ上りつつ安堵せん」
「尤も然るべし」
とて
兄弟打ち連れ、それよりも
忍びて都へ上がりける

都になれば、直ぐに帝へ参内し
奏聞申しける様は
「今度、筑紫が合戦
いかにも手強く候えば
大臣も手を砕き
数度(すど)の合戦に及びしに
ややともすれば蒙古ども
大臣を狙いしに
ついにひっ組み
両将共に海中に入り給うが
詰めの戦を我々
随分手強く仕り
蒙古を退治仕る
とは申しながら、
大臣討たれ給う上は
帰国の甲斐も候わず」
と、まことしやかに奏聞す

内よりの宣旨には
「さても無惨の次第かな
大臣、安穏にて帰朝せば
日本の主と成すべきもの
討たれしこそ甲斐無きこと
まずまず、別府兄弟には
九ヶ国の国司を預け置く
急ぎ下りて
後家に傅き(かしづき)奉れ
その上、大臣が跡を懇ろに教養せよ」
との宣旨なり

畏まって別府兄弟
御前を立ち
まず傍らに立ち寄り
「さてもさても、
案に相違の事共かな
日本国(にっぽんごく)を望みてこそ
君を捨てて置き申しつれ
珍しからぬ下向(げこう)や」
と、心良からず兄弟は、
筑紫へこそは下りける
兄弟が心中、儚かりともなかなか
申すばかりはなかりけれ

 

 

第四

 

みどり丸死する
并(ならびに)
大臣嶋にて御なげき

去るほどに
物の哀れを留めしは
豊後の国におわします
大臣殿の北の方にて
諸事の哀れを留めたり

ある日のう中のことなるに
女房達を召されつつ
形見の品々取り出だし
見るに心の乱るるとて
中にも御着背長と鉄(てつ)の弓矢を

宇佐八幡にぞ込め給う

さて、御内(みうち)にありおう侍達
皆、暇(いとま)を下されば
主(ぬし)無き身となり
あるいは、元結い切り
御菩提問う人もあり
思い思い心々に
己が(おの)様々なりにけり

さて十二てう(鳥)の鷹どもの
足緒(あしお)を解いてはなされたり
十二鳥(ちょう)の鷹のその中に
緑丸とて大鷹あり
主君の名残惜しみてや
立ち去る方もなかりけり

北の御方ご覧じて
「あれは、君、御秘蔵ありし
緑丸にてありつるが
疲れに及びてありつらん
のう、女房達
餌を飼い給え」と仰せける

承るとは申せども
いずれも女性(にょしょう)のことなれば
餌を飼うようを知らずして
飯を丸ろめて与えける

この鷹、嬉しげにて
この飯を咥え(くわえ)つつ
早、雲井遙かに飛び上がり
大臣殿のおわします
玄海が嶋に飛び行き
飯をとある岩間に置き
その身も岩の上に
ただ、羽(は)を休めていたりけり

嶋にまします大臣殿
映せる影の如くにて
岩間の宿を立ち出でて
汀(みぎわ)の方を見給えば
岩の上に鷹、一居(ひともと)
羽を休めて居たりける

急ぎ立ち寄り見給えば
古(いにしえ)手慣れ給いける
緑丸にてありければ
夢ともさらに弁えず(わきまえず)
「やれ、汝は、緑丸か」
とて、急ぎ御手に据え給い
「あら懐かしの緑丸や
 さて大臣がこの島に
在りとは、いかで知るたるぞ
げにや鳥類は五通有りとはこれなるべし

さてもこれなる飯は
御台所の業(わざ)なるかや
この飯を賜(た)ばんより
など、御文(ふみ)は賜(たまわ)らぬぞ
未だ、豊後にましますか
都へ帰らせ給うかや
淵は瀬となる世の中とて

変わり果てたよ悲しや」
とて、声を上げてぞ泣き給う

優しくも緑丸
嬉しく思いたる景色にて
涙ばかりぞ浮かべける
大臣この由ご覧じて
「さても名誉のこの鷹や
今、これほどの身となりて
この飯服して(ぶくして)あればとて
幾程命長らえん
鳥類なれどもこの鷹が
見る所も恥ずかしや
食わでもあらん」
と、思し召すが

さもあれ緑丸が
万里(まんり)の波を凌ぎ越し
これまで持ちて参りける
心ざしの優しきに
「いでいでさらば服(ぶく)せん」
と、御手を掛けさせ給えば

この鷹嬉しげにて、羽(は)を叩き
物言わざるばかりなり
大臣この由ご覧じて
「汝がこれにて見る如く
木の葉(きのは)だにも無き島なれば
書き送るべき様も無し
いかがわせんと」
と、のたまえば

この鷹、何(なに)とか思いけん
既にお前を立ち去りぬ
大臣この由ご覧じて
「早、帰るかよ緑丸
今しばしも有れかし」と
恨みては又泣き給う
暫くありて緑丸
楢(なら)の柏の葉を咥え(くわえ)

御前に差し置きぬ
誠に古(いにしえ)のそぶ(蘇 武)が

胡国の玉章(たまずさ)を

雁の翼に言づてしも
今、身の上と知られたり
我も思いは劣らじと
左の小指を食いきり
岩の狭間に血をためて
柏葉(かしわ)に一首書き給う

『飛ぶ鳥の
跡ばかりをば頼め君
上の空なる
風の便りに』

と書き留め給い
さて、鈴付けに結い付け

「早帰れよや、緑丸
必ず便りを待つぞ」
とて、涙と共に放さるれば
緑丸嬉しげにて
早、虚空を指してぞ飛び行きぬ

三日三夜と申すには
豊後の御所にぞ帰りける
北の御方、出でさせ給い
緑丸をご覧じて

「また、来たるかや緑丸
汝を見るにつけても
夫の面影身に添いて
尚も思うの勝るぞや
今も淵瀬に身を沈め
共ならばやと思えども
草の縁(ゆかり)も忍ぶ故
そよぐ心もよしなやな
夫の面影夢現(ゆめうつつ)に
立ち添い給う折り毎に
死したる人とは思われず
恋は祈りのものと聞く
会うまで命惜しきなり
もしやとばかりの頼みにて
さてこそ、か様に日を送る
羨ましや汝はさぞ
虚空を翔る(かくる)物なれば
至らぬ所はよもあらじ
もし夫の大臣殿
浮き世の中にましますか
何処の国にかおわします
告げ知らせぬ
緑丸」
とて、御落涙は暇も無し

優しくも緑丸
鈴付けを振り上げ
御前に居直り
身震いせしをご覧ずれば
木の葉に血の付きたる物あり
急ぎ取り上げ見給えば
別れて久しき
我が夫の御手跡(しゅせき)にて

一首の唄を書かれたり
夢ともさらに弁えず
「女房達、これ見給え
大臣、浮き世にましますぞや
構えて、さたば(不明?定ばカ)死し給うな

 ああ、嬉しや」
とて、女房達一度にわっと喜び
涙を流しける

御台、涙の暇(ひま)よりも
柏葉(かしわ)を御手に取り給い
「これこそ、命のある印よ
げに、御座在りし所は
紙無き方にてあればこそ
木の葉に物を書かれたり
硯も墨も無ければこそ
血にてか様に遊ばしたれ
いざや、硯を参らせて
思し召さるる事共を
詳しく書かせ申さん」
と、紫(むらさき)硯に油煙の墨
紙五つ重ねに、筆、巻き添え
御台を始め奉り
その外の女房達
我、劣らじと文を書き
取り集めたる巻物は
ああ、由無き業と聞こえける

さて、鈴付けに結い付けて
「構えて、構えて、この度は
疾く帰れよ」とのたまえば
この鷹、嬉しげにて
この鷹又、雲井遙かに飛びにけり
紫硯(むらさきすずり)の癖として

潮の満ち干に重かりけん
又は、多くの文どもに
露も含めるにや
しだい、しだいに引かれつつ
終に海に落ちいたり
空しくなりて失せにけり
無惨と言うも余りあり

労しや島にまします大臣殿
鷹だに今は、通わねば
何に慰み給う方も無く
尚も命の捨て難く
海蘊(もずく)を取らんそのために
浜辺に立ち出でて給いしが

汀(みぎわ)のかたへを見給えば
鳥の羽少し留(と)まりてあり
不思議さよと思し召し
急ぎ立ち寄り見給えば
この頃、通いし鷹にてあり
肝、魂もあらばこそ
急ぎ鷹を引き上げ
膝の上に抱だき上げ
かしこにどうと倒れ伏し
しばし、消え入り給いける

しばらくありてよく見給うに
沈むもひとつの道理あり
紫硯に墨もあり
その数々の文どもが
潮に乱れて見えねども
とりどりにこそ見えにける

「これぞ、にょしょう(女性)の儚さは
紙、筆、墨だにあるならば
これほど多き岩間にて
いかほど、物を書くべきに
硯を付くるとは何事ぞ
儚(はか)なの御台の心根や
あら、無惨やこの鷹が、

きらい(※鬼界)、高麗(こうらい)契丹国(けいたんこく)

へも行かずして
また、この島に流れ着き
再び物を思うよな

必ず生を受くる者
魂魄二つあるぞかし
魂は冥途に赴けば
魄(はく)はこの世に残るとかや
我も命のつづまりて(約まる)
今を限りの事なれば
冥途の道標(みちしるべ)して
連れて行けや緑丸
 やれ緑丸」

とて、声を上げてぞ泣き給う
とにもかくにも
緑丸が最期の体
大臣殿の御情け
世の中の物の哀れはこれとて
皆、感ぜぬ者こそなかりけれ

 

 

第五 

あいしの姫、
大臣の御台所の身代わりに立つこと
 

さる間
別府の刑部貞澄は、
九国の国司を預かり
上見ぬ鷲とぞ傲り(おごり)ける
あまり栄華のあまりにや
大臣殿の北の方へ
文玉章(ふみたまずさ)を付けけるが
手にだにも取らせ給わねば
別府、無念に思いつつ
とやせんかくやと
案じ煩い(わずらい)いたりしが
所詮叶わぬ物故に
物思わんも詮なし

只、失わんと思いつつ
郎等のその中に
かわののちゅうた(河野の忠太)を近付けて
「如何に、忠太
我が思う子細あり
かうのちょう(?郷の庁)へ忍び行き
御台所を謀り(たばかり)出だし
密かに、あの、まんのう(?不明:満濃カ:あるいは、「まこも」カ)が淵へ

沈め申せと言い付くる

忠太、仰せを承り
情けなく思えども
主命(しゅうめい)なれば力無く
お受けを申し立ちにける
忠太、何とか思いけん
じょうや(地親)へは行かずして

ここに、門脇の翁とて
忠太がためには叔父なり

密かに、かの翁が館(たち)に行き
姥(うば)をも寄せず只二人
かようかようの仰せなるが
如何はせんとぞ語りける

翁、この由聞くよりも
「こは浅ましき次第かな
まず、よくこそは知らせたれ
なにとぞ知略を巡らせて
助け置き参らせたや
如何がはせん」
とぞ案じける

しばらく有りて翁は
「げに思い出したり
さても、我が子の「あいし(愛子)の姫」は
見目も形も劣らねば
夜に入りて、人も見知るまじ
不憫には思えども
彼を替わりに立て
御台所を助け参らせん
これに暫く待て
それがし、計らいてみんする」
とて、只一筋に思い定むる

翁が心ぞ頼もしき
さて、帳内(ちょうだい)に忍び入り

密かに姫を招き寄せ
「如何に愛子の姫
さても難儀の次第あり
それにつき
汝を頼み、談合すべき事あり
先ず、語って聞かせん
それ、こう(郷)のちょうや(庁屋)に
おわします御台所は、
汝がためにはまさしく三代相恩の御主(おしゅう)よな

されば、かの御台所を
別府殿が計らいにて
失い奉らんと企らまれ
則ち、その使いを
これにある忠太(ちゅうだ)に仰せ付けらるる
また、忠太がためにも御主なれば
いかで無下に失い奉らん
されば我に談合せしが
我も詮方なし
さて汝は
見目も形も劣らねば
御台所の替わりに立ち
御台を助け参らせんや

構いてかように申すとて
父を恨みと思うなよ
親の身として
子の命くれよと言う
御主が心を思いやれや
 愛子の姫」
とて、声を上げてぞ泣き給う

 

翁、この由聞くよりも
「ああ、よく言いたり、
 愛子の姫
汝、さほどに思い切る上は
我も思い極めたり
夜に入らば最期なるべし
余所ながら、母に暇乞いを申さぬか」

姫、この由を聞くよりも
「心安かれ父上
何しに命、惜しむべし
それ侍は、戦場に出でて
互いに討たるるも 御主のため
過去の業因(ごういん)つたなくして
女とこそは生まるるとも
心は、男子(なんし)に劣るまじ
思えば自ら果報の者
今、かく御主の替わりに立ち
末代までも名を残さば
心あらん輩(ともがら)は
さぞ、羨ましく思うらん
心安かれ父上」
と、臆する気色はなかりけり

姫、この由を聞くよりも
「仰せの如く、
母上に御暇乞いを
申したくは候え共
人の親の習いにて
成人の子を先に立て
年寄り跡に長らえて
物思わんという親の
世にはいかでかましまさん
御暇乞いも申すまじ
これを形見に見せてたべ」
とて、鬢(びん)の髪を少し切り
「形見は人の無き跡の
思いの種と聞くなれば
これを、ご覧候え」
と、涙と共に渡しける

翁、形見を受け取って
「ああ、去るにても
世は逆さまとなりけるや
我が子の形見を見る事よ
伝え聞く
釈迦牟尼如来は
御子の羅睺羅(らごら)尊者を
また、密行(みつぎょう)と説き給う

孔子は、りぎょう(鯉魚)を先立て

思いの火を胸に焚く

斯く(かく)の道士(だうじ)なれども

我が子と言えば悲しきに

況わんや(いわんや)我は凡夫にて
未だ燃え立つ抜きの花

今、陽春と輝くを
先立て跡に残り居て
何を頼りに長らえん
のう、恨めしの我が身や」
とて、声を上げてぞ泣き居たり

その時、忠太申すよう
「御嘆きは理(ことわり)
去りながら、
それ人間の命は
でんこうちょうろう(電光朝露)夢の幻(まぼろし) 
北州の千年、それさえ今は跡も無し

殊に人間五十年は夢現(ゆめうつつ)
添い果つべき身にてなし
時刻も移り候に
早、疾く疾く」
とぞ、申しける

翁、この由聞くよりも
「今は、嘆くと叶うまじ
如何に、忠太
それがしも伴い行くべけれども
ちょうや(庁屋)へ行き

御台所を慰めん
必ず、忍べ」
と、申しける

姫、この由聞くよりも
「これまでなりや、父上様
必ず後世にて待ち申さん
さらば、さらば」
と、立ち出る

翁耐えかね
門(かど)送りして出でけるが
「暫く、待てや、愛子の姫
留まれ忠太
言うべき事のあり」
と、言えば

姫も忠太も立ち帰る
翁、とこうの言葉も無く
互いに目と目を見合いて
さらばと言いて立ち別れける
忠太、翁を諫め奥に入れ
姫を伴いそれよりも
満濃が淵へ急ぎける

池にもなれば
甲斐甲斐しくも忠太
小舟一艘用意し
 愛子の姫を打ち乗せ
沖を指して漕ぎ出す
程なく沖に着きしかば
「只今こそ御最期なれ
念仏申させ給え」
と、態と(わざと)こうしょう(口上)
に申しける

姫も心に手を合わせ
南無阿弥陀仏と念仏申す時にこそ
目眩(めくれ)心は消ゆれども
心弱くては叶わじと
舟よりかっぱと突き落とし
南無阿弥陀仏と回向して
自宅を指してぞ帰りける

さて、別府の御前に畏まり
沈めたる由申し上ぐる
別府、なのめに喜び
「今は心にかかる事なし」
と、いよいよ栄華を極めける
傲り(おごり)の程こそ儚なけれ

 

これはさておき
ここに、壱岐(いき)の浦の釣り人ども
沖へ釣りに出でけるが
南風に吹き放され
北を指してぞ吹かれ行き
玄海が島に着きにける

「ああ嬉しや、これに嶋のあり
上がりてひとまず休むべし」
と、しばらく息をぞ継ぎにける
嶋にまします大臣殿
人懐かしく思し召し
珍しげに見給えば
釣り人どもがこれを見て
ああ、怖ろしの者やとて
逃げ去って近づかず

大臣、この由ご覧じて
「あら、浅ましや我が姿
生をも変えずこのままに
鬼となりたよ悲しや」
と、いよいよ涙ぞすす(煤)みける
釣り人どもがこれを見て
「いや、涙を流すは優しや」
と、ちっと心が、こう(広)になり

「さて、汝は何者ぞ」と問うた
大臣この由よし聞こし召し
『名乗るべきか名乗るまじか
あら恥ずかしや 、名乗るまじ』
と、思し召し
「のう、これは、一年(ひととせ)
百合若大臣殿、
蒙国(むこく)へ向かわせ給いし時
船夫(ふなぶ)にさされて来たりしが

大臣帰朝有りて後
人さらに通う(かよう)事なし
されば帰らん頼りも無く
かく衰えて候なり
一樹の影に立ち寄り
一河の流れを汲む事も
皆これ、他生の縁と聞く
しかるべくは、お情けに
日本へ返して給われ」
と、涙とともに仰せける

釣り人どもがこれを聞き
「我も人も左様にあらんは力なし
その上、我らも
かように海上にて営み送る者なれば
人の上とは思われず
いざや助けん
去りながら、風の心地を知らぬなり
我も人も果報目出度くば
順風次第にいたすべし
また、この上に運尽きなば
尚しも遠く、はなさるべし
ただ、運に任せて押せや」
とて、やがて舟をぞ出しける
大臣、なのめに思し召し
潮を結び、手水(ちょうず)とし
「南無諸神諸菩薩
今、一度(ひとたび)日本の地へ帰してたべ
何とて、捨てさせたもうぞ」
と、虚空に向かって御祈誓あり
誠に、仏神三宝(さんぼう)も
これを不憫と思し召し
俄に(にわかに)順風吹き来たって
帆柱の蝉口(せみぐち)には

八大龍神ことごとく
面を並べておわします
さてまた、舟の舳先には
不動明王の降魔の利剣、ひっさげ

こんごうけんこ(金剛堅固)の索の縄

悪魔を寄せじと守護せらるる
カンマン二つの眦(まなじり)

艫(とも)には降伏(ごうぶく)
増長天伊舎那天(いしゃなてん)、大光天(だいこうてん)、羅刹天、風天、水天、火天(かてん)等

雨風(あめかぜ)波を鎮めんため
上界、下界の龍神(りゅうじん)
蛇身の毒を止め(とどめ)
夜日(よ、三日と申すには
筑紫の博多に舟が着く
有り難きとも中々
申すばかりはなかりけり

 

第六

 

大臣帰国、并(ならびに)
別府兄弟、討たるる事

去るほどに、大臣殿
我が朝に着かせ給う
このこと、なおも隠れ無く
壱岐の浦の釣り人が
けいがる(興がる)者を使う由
その隠れあらざれば
別府この由、伝え聞き
急ぎ連れて参れと言う

承るとて
漁師が屋(や)に使い立て
その頃、別府兄弟には
靡かぬ(なびかぬ)草木もあらざれば
連れて御前(おまえ)に出でにける
別府、これをつくづく見て

「さても不思議の生き物かな
人かと思えば人でもなし
また、鬼かと思えば鬼とも見えず
ただ、餓鬼とやらんは、これなるべし
我にしばらく預け置け
都へまで上ぼせつつ
笑いぐさにせんずる」
とて,釣り人帰し
大臣殿をぞ留めける

我が御主(おしゅう)とは夢にも知らず
あまり御身の苔むしたればとて
則ち、名をば「苔丸」とぞ付けにける
誠に内外(うちそと)の笑いぐさ
これに過ぎたる事もなく
明かし暮らしておわします。

かくて、その年も暮れ
新玉の春にもなれば 


九国の在庁ら、弓の頭を始め、別府殿を祝ふ。

いたはしや、大臣殿には、御顔にも御足手にも、

さながら苔のむし給へば、

苔丸と名付申、

矢取りの役をぞ指しにける。

大臣、弓場に立たせ給ひ、

「こゝにて運をきはめばや」

と思召、

「あそこなる殿の弓立の悪さよ。こゝなる殿の押し手の震う」

と、さん/\〃に悪口し給ふ。

別府、この由聞くよりも、

「いつ汝が弓を射習ふて、さかしらを申ぞ。もどかしくは一矢射よ」。

大臣殿は聞召、

「射たる事は候はね共、

余りに人々の射させ給へるが醜きほどに、申て候」。

別府聞て、

「さほど、汝が射ぬ弓をさかしらを仕るぞ。

是非、射じと申さば、

宇佐八幡も御知見あれ。人手にはかくまじ。直に切て捨つべし。とく射よ」

と責めかくる。

大臣殿は聞召、

「仰にて候程に、一矢射たくは候へども、引くべき弓が候はず」。

別府聞て、

「やさしく申ものかな。強き弓の所望か。

又、弱き弓の所望か」

「同じくは、強き弓の所望にて候」

「易き間の事」とて、

筑紫に聞ゆる強弓を、十張揃へて参らせ上ぐる。

二三張押し重ね、はら/\と引折つて、

「いづれも弓が弱くして、事を欠ひた」

と、仰ければ、別府これを見て、

「きやつは曲者かな、其儀にてあるならば、大臣殿の遊ばしたる鉄の弓矢を射させよ」「尤然るべし」

とて、宇佐八幡の御宝殿に崇め置く、

鉄の弓矢を申下ろし、大臣殿に奉る。
いつしかもとより御執(おんだ)らし、

懸りの松に押し当てて、

ゆらりと張つて素引きして、

鉄の御調度をうち番ひ、

的には御目をかけられずし、

歓楽して居たりける別府の臣に目をかけて、大音上げて仰せけるは、

「いかにや九国の在庁ら、

我をば誰とか思ふらん。

いにしへ、島に捨てられし百合若大臣が、

今、春草と萌え出る。

道理に任せて我や見ん。

非道に任せて別府や見ん。いかに/\」

と、有しかば、

大友諸卿、松浦党、一度にはらりと畏まり、君に従ひ奉る。
 別府も走り降り、「降参なり」とて、

手を合する。

いかでか許し給ふべき、

松浦党に仰付、高手小手に縛め

、懸りの松に結ひ付け(※たり)


菊池を初めとし、その外、諸侍

皆々御供仕り
早、都を指してぞ上がらるる
都になれば大臣殿
古(いにしえ)の花の姿に引き替え
やがて参内、被りなりける
内よりの宣旨には
「大臣、不思議の命を助かり
二度(ふたたび)参内ある所
神妙なり
則ち、日本の将軍たるべし」
とて,御土器(かわらけ)をぞ被り下しける
大臣、忝なしとて
三度戴き、頂戴あり
さて、重ねての宣旨には
「別府兄弟をもくださるる
心のままに計ろうべし」
忝なしとて御前を立ち
都の館へ移らるる
かかりける所に
翁、忠太、諸共に
御台所の御供して
君の御前に出でにける
大臣、夢とも弁えず
互いに取り付き泣き給う
別れてよりこの方の
恋しゆかしのことどもを語り出だし
尽きせぬ物は涙なり
御台、涙の暇よりも
翁、忠太が情けの事
懇ろ(ねんごろ)に語り給う
大臣この由聞こし召し
「さては、左様にありけるか
頼もしき両人や」と
則ち、翁、忠太には
九国の総政所を下されける
忝なしとて、いよいよ傅き(かしづき)奉る
その後、壱岐の浦の釣り人を召し出し
数の宝を被り下されば
喜び、御前を罷り立ち
さて、別府兄弟を召し出す
大臣、ご覧じ
「おのれらを百日、百夜、刻みても
厭きたらねども
この度の喜びに
早く暇を取らせよ」
承るとて、
白昼に頭(こうべ)を刎ぬる
憎まぬ者こそなかりけり
かくて大臣殿
緑丸が教養とて
宮尾の乾(いぬい)に当たって
神護寺(じんごじ)という寺を建立し給う

鷹のために建て給えば、
今の世に至まで
高雄山これなり

その外の人々に
皆々、恩賞行わるる大臣の御威勢
誠に千秋万歳(せんしゅうばんぜい)
目出度しとも中々申すばかりはなかりけれ

 

寛文二年壬寅二月吉日
太夫正本なり

 

注釈

 

ひぐらしこだゆう【日暮小太夫】 
万治から寛文(1658‐73)ころの説経太夫。日暮派は本来鉦鼓(しようこ)をたたき,
歌念仏を得意としたが,寛文前後に京の四条河原や名古屋の尾頭町で興行した際には本格的な説経を語っている。1661年刊《愛護若(あいごのわか)》,62年刊《百合若大臣》,69年刊《王昭君》などの正本がある。《歌舞妓事始》(1762)に〈今は日暮太夫なし〉と記され,その末流は〈説経讃語〉と称してほそぼそと継続した。【岩崎 武夫】

ぼう‐けい【謀計】
はかりごと。相手をだます計略。謀略

 

え‐こ【依×怙】
1 一方だけをひいきにすること。不公平。えこひいき。
 2 頼ること。また、頼りにするもの。
3 自分だけの利益。私利。

 

さが‐てんのう〔‐テンワウ〕【嵯峨天皇】
[786~842]第52代天皇。在位809~823。桓武天皇の皇子。

 

ぎょ‐う【御宇】
《宇内(うだい)を御する意》帝王が天下を治めている期間。御代(みよ)

 

長谷寺(はせでら)は、奈良県桜井市にある真言宗豊山派(ぶざんは)総本山の寺。

奈良県桜井市初瀬731-1

 

うい‐こうぶり〔うひかうぶり〕【初▽冠】
元服して、初めて冠を着けること。ういかがふり。ういかぶり。ういかむり。ういこうむり。

むくり【蒙古】-日本国語大辞典
蒙古(もうこ)の国。

『古事記』では国之常立神、『日本書紀』では国常立尊と表記されている。別名、国底立尊(くにのそこたちのみこと)。神名の「クニノトコタチ」は、日本の国土の床(とこ、土台、大地)の出現を表すとする説[1]や、日本国が永久に立ち続けるの意とする説など、諸説ある。

天地開闢の際に出現した神である。『日本書紀』本文では、国常立尊が最初に現れた神としており、「純男(陽気のみを受けて生まれた神で、全く陰気を受けない純粋な男性)」の神であると記している。他の一書においても、最初か2番目に現れた神となっている。

『古事記』においては神世七代の最初に現れた神で、別天津神の最後の天之常立神(あめのとこたちのかみ)と対を為し、独神(性別のない神)であり、姿を現さなかったと記される。『記紀』ともに、それ以降の具体的な説話はない。

 

イザナギ(伊弉諾・伊邪那岐)は、日本神話に登場する男神。
イザナミ(伊弉冉、伊邪那美、伊弉弥)は、日本神話の女神。

 

わたらい〔わたらひ〕【度会/渡会】
三重県中東部の郡名。また、伊勢市を中心とする地域の旧県名。古くから伊勢神宮の神郡(かみごおり)で、慶応4年(1868)度会府が置かれ、明治4年(1871)度会県となり、同9年、三重県に合併。

 

大同 (日本) - 日本の元号(806年-810年)。

 

坂上 田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)は、平安時代の武官。名は田村麿とも書く。正三位、大納言兼右近衛大将兵部卿。勲二等。死後従二位を贈られた。
中央で近衛府の武官として立ち、793年に陸奥国の蝦夷に対する戦争で大伴弟麻呂を補佐する副将軍の一人として功績を上げた。弟麻呂の後任として征夷大将軍になって総指揮をとり、801年に敵対する蝦夷を降した。802年に胆沢城、803年に志波城を築いた。810年の薬子の変では平城上皇の脱出を阻止する働きをした。平安時代を通じて優れた武人として尊崇され、後代に様々な伝説を生み、文の菅原道真と、武の坂上田村麻呂は、文武のシンボル的存在とされた。

 

神明: 祭神としての天照大神(あまてらすおおみかみ)の称

きゅう‐い〔キウ‐〕【九×夷】
昔、中国の漢民族が東方にあると考えた九つの野蛮国。夷(けんい)・于夷(うい)・方夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷をいう。

 

おう‐ご【応護/▽擁護】
仏語。衆生の祈願に応じて、仏や菩薩(ぼさつ)が守り助けること。
 

 

けっこう【結構】

準備。用意。したく。

ほうき〔はうき〕【伯耆】
旧国名の一。山陰道に属し、鳥取県の中西部にあたる。伯州

 

や‐たば【矢束】
1 矢の長さ。やつか。

 

かぶら【×鏑】
1 矢の先と鏃(やじり)との間につけて、射たときに鳴るように仕掛けた卵形の装置。角・木・竹の根などを用い、内部を空洞にして、射ると大きな音響を発して飛ぶ。狩猟用の野矢の一種。軍陣の箙(えびら)には上差(うわざし)として差し添えた。鳴り鏑矢。鳴り矢

とも【×艫】
船の後方の部分。船尾

ともへ 【▼艫▼舳】
舟の、ともとへさき。

い‐がき【▽斎垣】
《「いかき」とも》神社など、神聖な場所に巡らした垣。瑞垣(みずがき)。玉垣(たまがき )

 

ほう‐か〔‐クワ〕【×烽火】
のろし。のろしの火。

 

う‐づき【×卯月】
陰暦4月の異称。

ちくら【×筑羅/×舳×】
《日本と朝鮮半島との境にある巨済島の古称「涜盧(とくら)」の音変化とも、「筑」は筑紫、「羅」は新羅(しらぎ)のことともいう》日本とも中国ともつかないこと。どっちつかず。筑羅が沖。

ろくしゅ‐しんどう【六種震動】
仏語。仏が説法するときの瑞相として、大地が六とおりに震動すること。動・起・涌(ゆう)・覚(または撃)・震・吼(く)。六震。

蟷螂(とうろう)の斧(おの)
《カマキリが前あしを上げて、大きな車の進行を止めようとする意から》弱小のものが、自分の力量もわきまえず、強敵に向かうことのたとえ。
いもじり【蟷=螂】
《「いぼむしり」の音変化》カマキリの別名。
とう‐ろう〔タウラウ〕【×蟷×螂/×螳×螂/×螳×】

そんしょう‐だらに【尊勝×陀羅尼】
尊勝仏頂の悟りや功徳(くどく)を説いた陀羅尼。読誦(どくじゅ)すると罪障消滅や除災・延寿の功徳があるとされる。仏頂尊勝陀羅尼。

《真言》大咒(たいしゅ)、火界咒(かかいしゅ)と呼ばれる「ノウマク サラバタタギャテイビャク サラバボッケイビャク サラバタタラタ センダマカロシャダ ケンギャキギャキ サラバビギナン ウンタラタ カンマン」

 中咒(ちゅうしゅ)、慈救咒 (じくしゅ)と呼ばれる「ノウマク サンマンダ バサラダン センダンマカロシャダヤ ソハタヤ ウンタラタ カンマン」

是観世音菩薩摩訶薩 於怖畏急難之中 能施無畏 是故此娑婆世界 皆号之為施無畏者
(ぜーかんぜーおんぼーさーまーかーさー おーふーいきゅうなんしーちゅう のうせーむーい ぜーこーしーしゃーばーせーかい かいごうしーいーせーむーいーしゃ)

てつ‐じょう〔‐ヂヤウ〕【鉄×杖】
鉄で作った杖(つえ)。鉄枴(てっかい)。

玄界島(げんかいじま)は、福岡県福岡市西区に所属する島。東経130度14分、北緯33度41分に位置する。福岡湾の出口、玄界灘に面している。

※観音さまには こんな話しがあります。
昔、インドに、早離(そうり)速離(そくり)という
二人の兄弟がおり 二人の母親は早く亡くなり、
父の長邦(ちょうな)は再婚しましたが 
その継母が、とても悪い人で、
長邦(ちょうな)がいない時には、
二人をこき使い、いじめぬいたのです。

そんなある年、飢饉で食べるものがなくなり、
長邦(ちょうな)他国へ出稼ぎに行き
留守であるときに、
子供に食べさせるものも無くなった継母は
「一緒にお父さんの所へ行こう」と二人を連れて、家を出ました。
海岸に着くと、二人を船に乗せ、孤島に渡り
「この島の向こうにお父さんがいるから探しておいで」と
二人を船から降ろしたのです。置き去りにして捨てたのです。置き去りにされた二人は 
島には食べ物もなく、二人はやせ衰えていくなかで、弟の「速離」が息も絶え絶えに言う。

「おにぃちゃん。ぼくたちは、なんでこんなに不幸なんだろう。もし生まれ変われたら、僕たちをこんなに、苦しめた人間社会を呪って、仇を討とうネ」と。

それを聞いた兄の「早離」は、「なにを言うんだ。僕たちを生んでくれた、お母さんが言ってたじゃないか。『どんなつらいことがあっても、決して人を憎み、社会を、恨んではいけませんよ。世のため、人のために尽くす人に
なりなさい』と。世の中の子供たちが、もう僕たちのような不幸な目にあわないように、
助けてあげられる人になろうじゃないか」。

弟の「速離」もうなづいて、「そうだったね。お兄ちゃん。僕がまちがっていた。天国に行ったら、お母さんに会えるね。」と

死後生まれ変わって苦しむ人々を、救おうと百の誓願をたてて絶命したのです。

父の長邦は帰宅後、二人の子を探して孤島に来ましたが、既に白骨の身になっていました。兄の早離は今の観音菩薩、弟の速離は勢至菩薩、母は阿弥陀如来、長邦は釈迦仏であったということです。

なのりそ【×莫▽告▽藻/神=馬=藻】
ホンダワラの古名。和歌では「な告(の)りそ」の意に掛けて用いられたり、「名告る」を導く序詞を構成したりする。なのりそも。
ほん‐だわら〔‐だはら〕【馬=尾=藻/神=馬=藻】
ホンダワラ科の褐藻。浅海底の岩に繁茂する。よく分枝し、長い葉をもち、米俵形の気胞を多くつける。食用、肥料用、また乾燥させて正月の飾り物にする。太平洋岸および新潟以南に分布

 

きせ‐なが【着背長】
鎧(よろい)・具足の美称。特に、大将の着るものをいう。

うさ‐じんぐう【宇佐神宮】
大分県宇佐市にある神社。旧官幣大社。祭神の八幡大神(応神天皇)・比売(ひめ)大神・神功(じんぐう)皇后を三殿に祭る。全国八幡宮の総本宮。伊勢神宮に次ぐ第二の宗廟(そうびょう)として奈良時代から皇室の崇敬が厚い。八幡造りの本殿は国宝。豊前(ぶぜん)国一の宮。宇佐宮。宇佐八幡。

越後33観音第29番 宝積寺(ほうしゃくじ)

新潟県北蒲原郡聖籠町諏訪山578

真言宗智山派 札所本尊 十一面観世音菩薩

天智天皇のころ、百合若大臣といわれる武勇に優れた壮士がおり、当山の洞より名鷹を得て、緑丸と名付けて可愛がり、鷹も忠を尽くした。

ひともと:鷹の数え方

六神通 (ろくじんずう)とは、仏・菩薩などが持っている6種の超人的な能力。6種の神通力(じんずうりき)。六通とも。
具体的には以下の6つを指す。
天眼通(てんげんつう) - 五眼(ごげん)の一。神通力により、ふつう見えないものを見通す超人的な眼。
天耳通(てんにつう) - ふつう聞こえる事のない遠くの音を聞いたりする超人的な耳。
他心通(たしんつう) - 他人の心を知る力。
宿命通(しゅくみょうつう) - 自分や他の人間の前世を知る力。
神足通(じんそくつう) - 機に応じて自在に身を現し、思うままに山海を飛行し得るなどの通力。
漏尽通(ろじんつう) - 自分の煩悩が尽きて、今生を最後に、生まれ変わることはなくなったと知る力。

※五神通は漏尽通を除く

※(淵は瀬となる世の中)

世の中の移り変わりが激しく、定まりがたいことのたとえ。

なら‐がしわ〔‐がしは〕【×楢×柏】
1 カシワの別名。また、コナラの別名。
2 ブナ科の落葉高木。本州中部以西の山地に自生。葉は長楕円形で、裏面が灰白色。実は椀(わん)形の殻斗(かくと)をもつどんぐり。

蘇 武(そ ぶ、紀元前140年頃? ? 紀元前60年)中国・前漢時代の人。字は子卿。父は衛尉・蘇建。兄は蘇嘉、弟は蘇賢。


平家物語)蘇武の故事、雁書の由来 
漢の武帝は、大将軍李少卿(李陵)、蘇武に命じて故国(匈奴)を攻めさせました。しかし両人とも故国に破れ、生捕りになります。
故王は生捕りになった者の中から六百三十余人を選び、岩窟に三年間監禁し、片足を切って追放します。その中に蘇武もいました。蘇武は雁の羽に都への手紙を結びつけて放ちます。
漢の昭帝(武帝の子)が御遊の折、飛んできた雁が翼に結びつけた手紙を食いちぎって、落とします。蘇武の手紙です。
そこには「身は故国に散らすとも、魂は再び漢に帰って帝にお仕えしよう」と、書かれていました。昭帝は感じ入ります。これ以後、手紙のことを「雁書」とも「雁札」とも言うようになりました。
蘇武が生きていることを知った帝は、将軍李広に命じて故国を攻め破ります。こうして蘇武は、十九年ぶりに故郷に帰還することができました。

すず‐つけ【鈴付け】
鷹の尾羽の中央の2枚の羽。鷹狩りで、そこに鈴を付けることから言う

かまえ‐て〔かまへ‐〕【構えて】
[副]1 まちがいなく。本当に。必ず

よし‐な・い【由無い】
 そのかいがない。つまらない。くだらない。
 不都合だ。よくない。

キタイ【Khitai】
4世紀以来、遼河支流シラ‐ムレン流域にいたモンゴル系の遊牧民族。10世紀初めに耶律阿保機(やりつあぼき)が周辺の諸民族を統合し、その子太宗のとき国号を遼とした。12世紀初めに宋と金に滅ぼされたが、一部は中央アジアに移動して西遼を建てた。契丹(きったん)

じょうや[ヂょうや]【地親】

〔名〕(「じおや(地親)」の変化した語)地主(じぬし)。土地の所有者。

※伯魚(はくぎょ:姓は孔、名は鯉、字は伯魚。孔子の息子。孔子より先に死去する、

どう‐し〔ダウ‐〕【道士】

《「どうじ」とも》
1 道義を体得した人。
2 仏道を修めた人。僧侶。
3 道教を修めた人。道人。
4 神仙の術を修めた人。仙人。

 

抜きの:生え抜きの

でんこう‐ちょうろ【電光朝露】
いなびかりと朝の露。はかなく消えやすいことのたとえ。

 

.ほくしゅう の 千年(せんねん)
北州に住むものが保つという千年の寿命。
ほっくる‐しゅう〕【北×倶×盧×洲】
《(梵)uttarkuruの訳》須弥山(しゅみせん)をめぐる4州の一。北方にあって、他の3州よりすぐれ、ここに生まれた者は千年の寿命を保つという。鬱単越(うったんおつ)。北洲(ほくしゅう)。

.せみ‐ぐち【蝉口】
〔名〕旗竿・帆柱などの部分の名。竿の先端の、綱や紐の取りつけ口
 帆柱の上端または長いさおの先などにつけて、綱を掛けて、高い所に物を引き上げるのに用いる小さい滑車。せみぐち。せみもと。

けん‐さく【×羂索】
《「羂」はわなの意で、もと、鳥獣をとらえるわなのこと》5色の糸をより合わせ、一端に環、他端に独鈷杵(とっこしょ)の半形をつけた縄状のもの。衆生救済の象徴とされ、不動明王・千手観音・不空羂索観音などがこれを持つ。

増長天は、須弥山の4方向を護る四天王の1人として南瑠璃?(みなみるりた)に住み、南の方角、或いは古代インドの世界観で地球上にあるとされた4つの大陸のうち南贍部洲(なんせんぶしゅう)を守護するとされる。

 

伊舎那天(いざな、いしゃな・てん、Skt:Issaana)は仏教の天部における天神の名である。欲界第六天(他化自在天)の主。
一面三目二臂の忿怒相、持物は右手に三叉戟、左手に杯で、牛に乗る姿につくられる

 

大光天:二十八宿の斗宿。北方玄武七宿の第一宿:射手座

 

羅刹とは鬼神の総称。四天王の一である多聞天(毘沙門天)に夜叉と共に仕える。

 

風天(ふうてん、Skt:Vayu)は、仏教における天部の一人で、十二天の一人。風を神格化したもの。

 

水天(すいてん)とは、仏教における天部の一人で、須弥山の西に住んでいるとされる。十二天の一である。水の神であり、竜を支配するとされる。

 

火天(かてん)は、仏教における天部の一人で、十二天の一人。火を神格化したもの。

 

きょう‐が・る【興がる】
 一風変わっている。酔狂である。

 

 

 

 

※本正本は、以下に、落丁があるため、該当する部分を幸若舞の記述によって補う。

 

 

 

 

 

 

以下、本正本の記述に戻る

高雄山寺

高雄山寺(または高雄寺)は、現在の神護寺の地に古くから存在した寺院である。和気清麻呂の墓所が今の神護寺境内にあるところから、ここも和気氏ゆかりの寺院であることは確かだが、創立の時期や事情については明確でない。伝承では、洛北の鷹峯(京都市北区鷹峯)に鎮座していた愛宕権現を愛宕山に移座した際に、他のいくつかの山岳寺院とともに建立されたという。高雄山寺の歴史上の初見は延暦21年(802年)である。この年、和気氏の当主であった和気弘世(清麻呂の長男)は伯母に当たる和気広虫(法均尼)の三周忌を営むため、最澄を高雄山寺に招請し、最澄はここで法華会(ほっけえ、法華経の講説)を行った。弘仁3年(812年)には空海が高雄山寺に住し、ここで灌頂(密教の重要な儀式)を行った。この時、灌頂を受けた者の氏名を書き付けた空海自筆の名簿(灌頂歴名)が現存し国宝に指定されているが、そこにも「高雄山寺」の寺号が見える。

 

※但し、単に「鷹:たか」の音を掛けただけとみられる。